見出し画像

母の言葉プロジェクト : ほこほこと生きるって?

「あなたのは、バッタの踊り」小学校の時習っていたバレエの発表会を終えて、喜び勇んで駆け寄った私に向かって、母は実に平坦な声でその言葉を発した。

そうなんだぁ、とその時の私はぼんやり思い、すこし大きくなると自分の自信のなさと、そういう母の育て方とを関連づけようとするようになった。

昔娘の生きる道

私が中学生の時、母は「娘が二人もいて母親が家事にあくせくするなんて、おかしい」と高らかに宣うた。

ある時、母の言いつけで私は台所と食堂の掃除をした。はたき、掃除機、雑巾がけを済ませた私は、結構やった感に満たされた。中学一年生でここまでやる子は、すごいよね。

すると、そこに突然現れた母は、切り口上で言う。「椅子が出しっぱなしじゃ、駄目じゃないの。お掃除は、物があった場所に全部元通り納めるまでは終わってないのよ」

大人になってから友人たちとの話が「私の母親こうだった大会」になった時、私も叱られてばっかり、欠点を指摘されてばっかり、という人が結構多かった。私たちが育った時代の子育ては、大概そんな風だったのか。

世間もなかなか厳しいものだと思わせられたこともある。私が26歳になった時に家にやって来た、結婚話の仲介をする、いわゆる仲人さんは私の身上書をちらりと見て言った。「あなたは、もう何も言えません」

女の25歳クリスマスケーキ説が定説であった頃だ。つまり、女は25歳過ぎると価値が0になる! 人間じゃなくなるのかしら?

アメリカのビジネス・スクールへ

31歳でアメリカに留学をした。今から見ると信じられないくらい強い、世間からの逆風の中での留学だった。そもそも、そういう育てられ方をしていないのだ。周囲の人の感覚では、とんでもない無謀な行動だったらしい。

そういう逆風の中で大学院に行ったから、何が何でも予定通り2年で卒業しなければと必死で授業にくらいついた。

卒業後は、いろいろ試練もあったにしても、十何年かに一度の頻度で、僥倖ともいえる運というか人のお蔭に恵まれて、留学当初は思っても見なかったほどの仕事もまかせて貰えた。そして、その時々の課題に対して何とかしようと工夫を凝らし、皆で力を合わせて取り組む楽しさを味わえたことは、今も私の心の宝として残っている。

そういう風な時の積み重ねの中で、自分の人生にもらった時の使い方を考えるようになって、すでに見送った両親の言葉を思い出すことが増えてきた。その言葉を聞いた、その時とは違った印象でよみがえって来る。

母の場合、幼い私の心にとっては、その歯に衣を着せぬ物言いに自尊心を打ちくだかれた印象が強くて、私の視野はそれに覆われていた。しかし、人は亡くなってしまうと、その言動は、残された人の記憶の中で次第にあく抜けしていくものらしい。

今は、そういう作用が働いているのか、時たま言ってもらえた褒め言葉の方が、記憶の底から浮かび上がって来ることが多い。そして、人の気持ちに忖度ない言葉を放つ母だっただけに、たまに発した褒め言葉が、それだけ真実味を帯びて私の心の中によみがえって来る。

バッタの踊りと成功の三要素

「バッタの踊り」は、幼い頃の私の様子を言い得て妙な表現だった。

当時、私は近所の幼稚園を借りて開かれていたバレエ教室に通っていた。場所柄もあってか、その教室には幼稚園児が多くいたが、大きくなると好きな子はもっと大きなバレエ団に移り、そうでもない子はやめて行く流れができていた。

私の親は、私には大きなバレエ団は無理と思って勧めなかったのかも知れない。私の方は周囲の状勢に気づきもしないで、いつまでもその幼稚園のバレエ教室に嬉々として通っていた。

まあ、要するにボヤっとした子供だったのだろう。そんな私の様子を「バッタの踊り」と評した母だ。だが、たまに私を前にして、自分の顔が私の顔の位置にくるまでしゃがみ、両手を私の肩において話しかけることがあった。

「人が成功するには3つのことが大事なんだって。運と鈍と根。運は分からないけど、あなたには後の二つがあるから、良かったね!」

聞いた私は少しも嬉しくなかった。上手に踊るね!とか、早く走るね!とか、そういう言葉だと嬉しかったのに。でも、そんな私じゃないから仕方がない。他に言いようがなくて、そんな言葉で慰めているのだろう、と思っていた。

しかし、成長するにつれ、私のもう一つの特徴、何故かいつも明日は今日より良くなると思い続ける気長な性格は、母の繰り返すこういう言葉の刷り込みの産物かと思うようになってきた。

あなたが大きくなったら、どんな人になるか楽しみだわ、とか、あなたは根性があると言ってお父さんが喜んでいたとか、お父さんに似て努力家だから良いわ、などなど。母は時たま、でもくり返し言った。地味で抽象的な言葉で、当時の私へのアピール力はなかったが。

資産運用の世界と生き方

あれほど反対した留学だったが、私が卒業後にアメリカの資産運用会社で株式アナリスト兼ポートフォリオマネジャーとして働き出すと、母は「それはあなたにぴったりの仕事だわ。あなたは時流に乗ったわね」と評した。

しかし、バブルの絶頂期を迎えていた日本株式市場に向かって夢中で働く私に、ある日母は言い放った。「私はあなたがたとえ総理大臣になったって、嬉しくなんかないから」昔は世間での栄達の象徴として「末は博士か大臣か」という言い方があったから、総理大臣という名詞は、単にその比喩表現として使ったのだろう。

「私はあなたが、ほこほこと生きてくれたら、それで嬉しいのよ」

次に母の口から叫ぶように出たのが、この言葉だった。私が20代の頃は縁談のタイミングを逃すのではという心配から、海外旅行も行かせてくれなかった母の究極の言葉は、お嫁に行って、ではなく、この言葉だった。

母の言葉プロジェクト

その後も、私はその時々の課題に一所懸命取組み、なんとか自分の足で歩き続けた。そうして進む中で母の言葉を思い出すうちに、母に勧められてまだ実行していないことがあるのに気がついた。自分のこれからの一生に、それを編み込むと楽しいじゃないか。そんなことを思って、小説を書き始めたのだった。

書くことについてのその言葉は、唐突に母の口から出た。その時の私は30代で、ある日家の座敷を歩いて横切っていた。母は、その座敷に座っていて、歩いている私にいきなり「あなたは、本を書き著しなさい」と言ったのだ。

はぁ? 私は狐につままれたような気分だ。だって、それまでの私に文章を書く兆候なんて皆無だったのだから。一度だけ、22歳の時、卒業旅行だと言って友人たちと出かけた先から送った絵葉書の文を、なぜか母が大袈裟なくらい褒めてくれたことはある。

いや、でも、正味10センチ角にも及ばないスペースに書き散らした文と、それから10年以上たって唐突に出た母のその言葉を結び付けるには無理があり過ぎる。私は「じゃあ、オムレツの作り方の本でも書きますか」と言って笑い飛ばした。

しかし、その時の母の様子や声や、いやにもったいぶったその言葉が、いつのまにか心に沈んでいたのだろうか。一生の間にしたい自分プロジェクトみたいなことを考えている時に、ふと思い出したのだ。

母はもういない。その言葉に、何か意味があったのかなんて分からない。ただ、母の言葉というところに私が意味を見出しているので、真剣に取り組んだ。

取り組み始めて10年、その間仕事で全く書けない時もあったし、その他の期間も書くことだけに没頭できたわけではない。でも、頭の中はいつも、このプロジェクトで一杯だった。何度も何度も書き換えた。心は七転八倒。

そして、やっと、一つの小説を創り上げた。「深海保護国際機構ーIODSP」を設定して、そこで働く主人公が立ち向かう組織と海の冒険物語を通して、次代の社会経済構造を想像してみた。それを、「迷霧の虹」という題でNoteに載せた。

そして一カ月。今も母の言葉の意味は分からない。でも何か、今までにないことをする機会は増えた。手探りでいろいろやってみよう。

母の言葉は他にもある。母が亡くなる前に寝たきりとなった時には、フルタイムの仕事と介護に忙殺されている私をベッドから見上げ、「歌(詩)を書きなさい」と言った。そう言われても余裕はない。でも、短歌のような短いものならできるだろうかと、ノートに我流の5・7・5・7・7の言葉を綴るようになった。

母の亡くなった後、通信教育で学ぼうとした時期もある。しかし、わぁ!この世界も奥が深い、という感想を抱いた所までで、今は中断している。これも再開したい。

ほこほこと生きる

その目的は、やはり、ほこほこと生きられるように、という事かと思う。ほこほこ、とは至言だなぁと思う。何も持っていなくても、ほこほこと生きることは可能だろうし、何を手に入れたとしても、ほこほこと生きられると約束されたわけではない。

幸せの形は分からないけれど、ほこほこと生きられれば、それは幸せではないかと思う。母には随分とむつかしい、でも、どんな時でも実現可能な課題を残してもらったと感じている。私にとって、一番大切な言葉だ。そんな「母の言葉プロジェクト」。これからも、楽しみに取り組んで行きたいと思っている。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?