ラジオ石巻「たんたか短歌」(2021/5/18)で紹介していただいた短歌など
猫歌人なのに「猫」のほうで話題にしていただくことが多く、「歌人」のほうではあまり言及されなくてささやかにしょんぼりしていたら、ラジオ石巻「たんたか短歌」の「現代歌人の小窓」コーナーで『猫のいる家に帰りたい』(辰巳出版)を取り上げていただけるというご連絡が。おお! うれしい!
そこで取り上げていただいた短歌への解説などを、残しておきたいと思いました。
<その1>
【ひとこと】
これは、『猫のいる家に帰りたい』のまえがきの最後に置いた短歌。まえがきを書いたときに併せて作ったので、掲載されている中では一番新しい短歌、ということになる。書籍タイトルの『猫のいる家に帰りたい』を少し意識して作った記憶がある。
正しい表記は
《幸せなことだ 暮らしに猫がいて泣いたり笑ったりすることは》
なんだけど、書籍はスペース的な制約で改行することを許容しているから正式表記をわかるすべがないんだよね。最後に小さな文字で短歌の正式表記一覧を入れてもらえばよかったかな……。
<その2>
【ひとこと】
「被写体のような」という比喩が、「わからないようでわかる」くらいのいい具合なのでは? と、自分でもちょっと気に入ってる一首。
これも正しい表記は
《撮らないでただ眺めてる 被写体のような姿で寝る猫のこと》
です。
<その3>
【ひとこと】
この短歌を引いてくれるとは、めずらしい……。こういうホラ吹き短歌、明らかすぎるホラは興ざめだし、信憑性がありすぎて本当だと思われても成功しないので、さじ加減が難しい。
<その4>
【ひとこと】
「僕おも」で「短歌だけでは意味が取りづらい」と指摘された一首。確かにスッキリしてなくて、かまいたちの「UFJ」のネタのフレーズみたいに思えてきた。
ずっと「短歌+エッセイ」というスタイルで書いていると、注意していても「(無意識的に)短歌をエッセイで補完してしまって、短歌を単体で読むと舌足らずになる」みたいなことが起こる。
<その5>
【ひとこと】
上の「猫が名を〜」の短歌は、ちょうど「猫は自分の名前を理解しているという研究結果が発表された」みたいな記事を読んだときに作った短歌で、この「名を呼ぶと〜」は、その研究結果を知る以前に作った短歌。
僕は「猫は自分の名前までは認識できていないが、自分に向けて何か言ってるな……ということは認識できている」派だったのだ。
でも最近は「研究結果の通り、猫は自分の名前、わかっているのかもしれないな……」と思うことも多い。
これも正しい表記は
《名を呼ぶと尻尾で答える猫がいる 妻を呼んでも答えちゃうけど》
です。
<その6>
【ひとこと】
書籍の中頃に挟み込まれている五十首の連作「ネコノイル」の最初の一首。初版の帯にも採用した汎用性の高い短歌。
連作、苦手だし、要請もないのでほとんど作らないな……。
<その7>
【ひとこと】
これは何回か改作した記憶がある。「認めていない」と書くことで、心ならずも認めてしまっている、みたいな感じが出せれば……と。
現状、うちの猫は「いわ」以外の3匹は、どちらかというと妻のほうが好きな感じ。
<その8>
【ひとこと】
これは『ネコまる』の連載「猫の短歌」の第1回めの短歌。
『ネコまる』(辰巳出版)は猫写真投稿雑誌なので、最初は「内容に合った読者投稿写真と併せて誌面にしましょう」と言っていて、実際にこの第1回は読者投稿写真が掲載されたんだけど、2回めからは仁尾家の猫の写真になっている。たぶん僕から「うちの猫の写真で」って提案したんだと思うけど、あまり記憶がない。
……で、単行本化する際には、これらの写真が全部小泉さよさんの描き下ろしイラストに差し替えられた、という経緯。逆に言うと、写真版は雑誌でしか見られない。
この短歌も「猫は広げた新聞紙には乗るものである」という共通認識がないと、実は通じない。だから読み手に委ねすぎた短歌と言える。
これも正しい表記は
《猫なりの自覚と責任なのだろう 広げた新聞紙で眠るのは》
です。
<その9>
【ひとこと】
もともとは「枡野浩一短歌塾」で《奇跡だと思う 拾った猫が十二回連続かわいいなんて》という形で出していた短歌。
枡野さんからは《「親ばか!」という、つっこみがないと面白くない。》と評されたその短歌を、それでもいい、と改作してたどり着いた作品。
<その10>
【ひとこと】
ラジオ内で「こんなに膀胱がかわいい歌ってあります?」って言ってくれていたけど、膀胱はかわいくないよ!
起こったことそのままの短歌なので、短歌としては、あまり褒められた出来じゃないかも。ただ連載が「猫雑誌」であることは、かなり意識していて、ある程度わかりやすい作品がよい、とも思っている。
<短歌を作る際の心がけ>
150字程度で、ということだったので、こんな感じにまとめました。音で聞くとわかりづらかったな……と、少し反省しています。
フィクションでも絵空事にしないこと、でも事実に甘えないこと。
歌意が誤解なく伝わること、でもそこに「詩」があること、でも思わせぶりにしないこと。
「自分ちの猫」ではなく「猫」を描くこと、もしくは「自分ちの猫」を描きながら「猫」まで描くこと、さらに「猫」を通して「人」を描くこと。
もっと細かい実践的なのはこちらにまとまっています。いまはここまで厳密ではないですが。
短歌を作るって「自分ルールに自覚的になること」と「そのルールを広げたり狭めたりすること」だと思っています。
<オススメの一首>
【ひとこと】
宇都宮敦さんご本人に、サインに好きな短歌を入れてもらう機会があって、この短歌を選んだら「本当にこれでいいんですか?」って聞かれた思い出が。
この短歌、「Re:」(1音!)ですごく効果的に時間が折りたたまれていて、テクニカルである一方で、「林家ペーがいた」という件名の能天気なメールを書いた側(僕の中では男性をイメージ)の人が、その返信で(たぶん)彼女に振られる、という筋立てが、ふたりの積み重ねてきた長年(?)の関係性を表していて、とてもエモーショナル。テクニカルかつエモーショナル。
メールを送った側の、自分たちの関係の深刻さに気づいていない感じとかが「そういうところだよ!」と言いたくなるし、身につまされたりもする。
ぜひ、菅田将暉さんと有村架純さんで映画化してほしい一首。
<本日の一曲>
【ひとこと】
これまでほとんど音楽に興味を持つことがなくて、「NO MUSIC, NO LIFE」ならぬ「NO MUSIC, MY LIFE」だったので、ラジオでリクエストしたい曲なんて考えたこともなかった。
いろいろ考えて、今となっては校舎の窓を割ったり、バイクを盗んだり、ベッドをきしませたり、という歌が広く知られていて、少し暑苦しい印象の尾崎豊の、地味だけど繊細なほうの楽曲を選んだ。
この歌のやりきれないような気だるい雰囲気が好きなんだけど、「きみの言うどうでもいいことに心奪われていた」という歌詞は、
1)「きみが『どうでもいい』と思っていることに僕は心を奪われていた」
2)「きみが言った『どうでもいいような内容のこと』に僕は心を奪われていた」
の、どちらにも取れて、短歌だと失敗だな、みたいなことを考えてしまう。
<みんなの題詠:「知」>
【ひとこと】
お題の候補として「喜」「知」「二」の3つを挙げていて、そのうち「知」が採用された。
僕も「枡野浩一のかんたん短歌blog」の投稿者だったので、短歌には題詠から入ったのだけれど(しかも「猫歌人」なので一生「猫」の題詠をしているようなものだけれど)題詠のコツは、この後藤グミさんのツイートに書かれているとおり「お題から発想するのではなく、自分のストックからちょうどいいやつをお題と合体させる」だと思う。
お題をいかに準主人公に置けるか。
お題から真正面に発想すると、他の作品と似てくるし、どういうのか……読んだときの「お⁉」みたいなのが薄くなる気がします。
ちなみに自作で「知」の入った短歌は下記の通り。これらは逆引きだから「知」のお題のときに投稿したら、きっと「お⁉」ってなりやすいと思う。
<会報まで>
ラジオだけじゃなくて、短い時間の中で会報まで作成していて、びっくり。「短歌部カプカプ 」の活動、すばらしいな。
<最後に>
ラジオで取り上げてもらうなんて、最初で最後っぽいから、本放送・再放送に合わせて副音声をやってみたり、こんなレポートを書いてみたり、すごくはしゃいで遊び尽くしてしまった。
このような貴重な機会をくれた「短歌部カプカプ 」近江瞬さん、ありがとうございました!
<もっと最後に>
今回取り上げていただいた『猫のいる家に帰りたい』は、現在第3刷が発売中!
載っている短歌すべてに猫が居てどうかしている本だと思う
2021/8/5発売の新刊『これから猫を飼う人に伝えたい11のこと』もよろしくお願いいたします!