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旅路で見つけていく自分

タカーシーさんは哲学の博士課程を『才能がないからドロップアウした』と仰いますが、どの道も自分が納得するまで極めることは非常に難しいことなのでしょうね。

大体、“才能“って何なんでしょう?
その人が持って生まれた、人とは違う秀でたものがその“才能”とやらだとすると、その『人と比べて秀でたのもの』の比べる基準ってどこにあるんでしょう?
人から「あんたは人と比べてすごいよ」と決めてもらわないとわからないものだとすると、どうやってそのボーダーラインが決まるんでしょう?資格?何かのコンテストで一番になること?誰にでも分かるライセンスの修了証書みたいなもの?

私はここにもよく書いているんですけれど、自分の人生は自分で決めたい人間なんですね。舵取りは自分でしてこそ我が人生を生きると言える、と思っています。だから自分の“才能”も自分が“好きだ”と思えることの中に必ずあると思っていて、それをどこまで自分で追求できるかに生きる喜びや目的を見つけたいタイプの人間です。

よく、自分で感じたり考えていることよりも、他人から見た方が自分の本質が分かるというようなことが言われますよね。自分の強みを意外と本人は分かっていないという。『ストレングスファインダー』というやつ?あれももちろん一理あるなとは思うのですが、それって外部から気づき(またはそのきっかけ)を与えられて初めて自分を知るってことですよね。確かに自分のことは自分では分かっていないことが大半だな、と思います。
私は『人間は人生をかけて自分を知る旅をする生き物』だと思っていて。

子供の頃から少しずつ積み重ねていく自分の好きなもの、嫌いなものを“自覚”するところから始まる自分を知る旅。その長い旅の中で「なぜこれが好きなんだろう?」「なぜこれが嫌いなんだろう?」と自分の感情を探り始めると少しずつ自分という人間の持つ潜在意識のようなものを自覚していくようになります。

私はこれまでの旅路の途中まで「好きなもんは好きなんじゃ。理由などない」という傲慢な性格をしていました。元々感覚人間なものですから、思考も感覚や感情に支配されているところが多くありました。そこで止まっていたら、今頃とんでもない自己中人間になっていたと思います。そうならない道を選べて本当に良かったなと今は安堵できていますが、この境地に至ったのはほんの数年前の話です。半世紀以上も生きてきて、ですよ。信じられないでしょ?

以前、note仲間にも話したことがあるのですが、このnoteを始めるまで、私は何も考えずに生きてきたな、と思ったことがありました。ものすごく驚いたんですよ。自分が50年以上も何も考えずに生きてきたなんて、普通思いませんよね。でも、本当にそう思ったんです。思えて良かったな、と。

noteで自分の思考を書くにはまずは内省が必要でした。内省?何それ。ってなりました。全然できていなかったんです。それまで自分の中身を掘り下げることを。
していたとしても、ほんの上層の部分だけでした。そこには前提として「自分は間違っていない。自分はこうだ」というエゴと傲慢があったのですが、それさえも気づいていませんでした。
動かないんです、それがあると。何も動かない。
まずはそのエゴと傲慢を取り除かないと、何も見えてこない。

自分を正当化することは簡単です。何も見なければいい。何も考えなければいい。そうすれば死ぬまで嫌なことからは目を背けて、好きに簡単に生きていくことができます。楽しいでしょうし苦しいことは少ないでしょう。そうして一生を終える人はたくさんいると思います。楽勝な人生です。

私もその楽勝な人生を途中まで生きてきました。誰に何をいわれようとも、自分が正しい、自分はこうだ、と考えを動かせませんでした。

しかし、noteで書くことを始めてから、少しずつ違和感を覚えるようになりました。自分という人間が、書くことによって少しずつ分かり始めてきたのです。

辻褄が合わなくなるんですよ。以前書いたことと、今の自分の心境が。そういうことがよくありました。それって一体何なんだろう?と考えていくと、その矛盾の中に自分の本質を突きつけられるんです。あぁ、なんて自分は小さいんだ。なんて自分は何も知らないんだ。なんて自分は何も考えていなかったんだ、と。

しんどかったし辛かったですよ。だって知らなければ楽勝人生でしたから。
でも、知ることを積み重ねてきたから見えてきたんです。自分という人間が。そして本当に望むことが。

どう生きていきたいのか、それは自分を知る旅の中でしか知ることはできないのだと気づきました。人間はきっと一生をかけて自分という存在を少しずつ知っていくのだろうな、と思います。だから今の時点でも、私はまだまだ自分を理解していないという自覚があります。ややこしいですね。でも、なんだか楽しみでもあるんです。こんな自分にもまだ伸びシロがあるような気がして。

ええっと、“才能“の話をしていたんでしたね。
早くから自分の才能に気づいて、その道を突き進み、自他共に認めることができたらどんなにか素晴らしい人生だろうと思います。よく「魂のレベル」なんていう言い方もされますが、そこには実年齢は全く関係無いのだと思います。

そういう人もたくさんいますよね。先日書いた24才の若きピアニスト藤田真央くんみたいな。
真央くんの中に老齢の巨匠のような佇まいを感じたのは、きっと彼が早くも見つけたからだろうと思いました。たくさん感じ、たくさん気づき、たくさん考えて見えてきたものの先に、自分という存在の素晴らしさを。

迷わない。ブレない。確信をもって自らの存在や才能に自信を持ち、自らを表現する。それって本当に素晴らしく、羨ましいことです。私もいつかその境地に達したいなと思います。

何が言いたいのかよく分からなくなってきました。
人生って、そんなようなものなんでしょうね。
分からないことだらけの自分を探す旅。私は今後もまだまだ続きそうです。

タカーシーさんはこれまでの人生という旅路で何を見つけましたか? その中のひとつでも、また今度教えてくださいね。

それではまた。

私の推しの風くんも、先の長い旅の途中のようです。
もがきながら、昨日よりちょっとでもいい人間になろうと努力してるんだとか。愛しいです。


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