見出し画像

生きているからこそ

今の胸の内を言葉にしたら、どんな風になるだろう。


noteの記事で、とても考えさせられる記事と出会った。
その内容はリアルタイムの話で、あまりにもリアルで
その記事を読んだあとに出てくる言葉のすべてが情けなく感じてしまって
とてもじゃないけれど、言葉を紡ぐことなんてできなくて
ただ、読んだあと、想うことしかできなかった。

十人十色、桜梅桃李。
人の数だけ、いまこの瞬間も物語がある。
自分ももちろん、その一人だけれど。

言葉を大事にしているからこそ、言葉を書けなくなる時がある。
言葉を大切にしているからこそ、言葉の無力さを感じることがある。
言葉を信じているからこそ、言葉を編みたくなる。

答えなんて出ない。
きっと、永遠に出ない。
でも、僕は考え、迷い、もがき、問い、書いてしまう。

それも、生きているからこそ、なのかもしれない。
生きているからというか、自らの魂があるから、というか。


"問い" ばかりが頭に浮かんでくる。
1個、10個、100個、1000個、24時間、寝てる時も夢で問うている。

自分が在る場所は。
自分がやることは。
自分が想うものは。
自分が呼吸するのは。

どうして、こうまで、問うているんだろう。
問うことなく、迷わず、真っすぐに歩んでいけたら
それはどれほど素敵なことなんだろう。

と、思っても誰かの見方からすれば
「問うことも素敵なことだよ」と言ってくれる人もいる。

そこに、やっぱり、答えはなかった。


大事な人だけど、一緒にいるのが苦しい。
大切な人だけど、一緒にいるのが苦しい。
簡単に言葉のキャッチボールができればいいのに。

僕は、自分からボールを投げるのが苦手だ。
というか、投げられないと言っても過言ではない。
コミュニケーションのキャッチボールにおける、イップスかもしれない。
投げるのが、とにかく怖いのだ。
そこから返ってくるボールを、想像して、自分でありもしない結論を見出して
そうして怖くなって、結局はボールを投げずに、うずくまる。

相手から投げられたボールなら、ある程度はちゃんと返せる。
だけど、自分からボールを投げることに信じられないほど怯えてしまって
僕はいつからか、投げることができないまま。

どれほど追い込まれたとしても
それがどんなに必要なキャッチボールだったとしても
僕は想像した恐怖の方を一瞬で自分に落とし込み、勝手に決めつけて
取り返しがつかなくなってしまったとしても、逃げてしまう。

向き合えない。
ずっと、もうずっと、向き合えないまま。
向き合いたいと思う相手が、いるのに。
とても大切な、はずなのに。

勇気で解決するなら、勇気が欲しい。
勢いで解決するなら、勢いが欲しい。
失敗で解決するなら、失敗したい。

どうすることもなく、イップスのまま限界を迎えるのか。
どうにかして自分を傷つけてでも、恐怖を超えて投げることができるのか。

あるいは、そもそも、こんな思考回路が誤っているのか。

生きることの難しさ。
生きづらさ。
自分という存在の出来の悪さ。

人は簡単には変われない。
人を変えることはできない。

僕が、僕自身が、自分が変わらなければ。

少しずつでも、一歩ずつでも、なんでも。


こんなにも自分を卑下した文章を書いているのに
僕のことを「マジ天才!」と言ってくれた友人がいる。

決めつけては、もったいない。
自分で自分を決めつけては、もったいない。

だから僕は、矛盾しているかもしれないけれど
「マジ天才!」と言ってくれた友人の言葉も、ちゃんと信じたい。

言葉に救われて
言葉に絶望して
言葉に何かを想う

僕は僕の魂と、まだ、旅をする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?