正論へのやる気がゼロ&つまようじで食べる話

人生楽しくないなーつって、そう言った舌の根も乾かぬうちに人と話してゲラゲラ笑ってたりしますが、根底のトーンというか自分の気持ちのフィーリングの問題ありますよね?

日常レベルでは「箸が転がってもおかしいお年頃…?」というくらい笑えるのですよ。
それは笑いに貪欲、自分から笑いをキャッチしに行く意欲にあふれているという「裏技」、いや「裏設定」が私の個性にあるからですね。

だからこう……人格を構成する層があるとしますと、第何層かまではきっと楽しげなんですよ。なんなら愉快そう!笑いの沸点低め。
で、もっと思い切り奥の魂レベルまでいっちゃうと、そちらの層はなんか今度は鉄壁の守りで楽しそうですよね。この現実がどうであるとかの影響ゼロ。たぶんよろこび百パーセントなんじゃん?という予想。

となると第何層めになるのか知らないのですが、そのあたり、人格を構成する中間あたりが今、楽しくない。
この楽しくなさに心当たりはあるのですが、その心当たりがまた「じゃ、これを自分なりに想定できる形で除去したとして、そしたらこの楽しくなさは消えるのか?」と考えると即答できないところがある(仕事関連のことではありません)。

そっす、
さすがに心を見るプロとして自分をごまかすわけにはいかないっす。
長年自分を見てて、私にはわかる。そういった表層にある原因に「託して」自分の不快感を味わってるだけって側面があるから。

まぁあれですよね、人生のストーリーライターとしての、クリエイターとしての、自分の癖っていうか、
「そこ、どうしてそうなる」
というもつれが自分なりにあって、それが解けておらんという事実に直面してしまってるのですよ。

このぉっ!三流作家!
つって、自分のことを今まじまじと見ているところなんです。

で、三流作家なりに(当社比)、ここからどうストーリー展開しようか、
自分が「人生もういいや」という感じですこぶるつまらなくなってる展開をですね、どう、突拍子もなくNo Ceiling※な感じではばたかせるか?

(※私がライブ等でもNo Ceiling!という言葉を好んで使ってるのは、ラッパーLil Wayneの昔のミックステープに「No Ceilings」というタイトルのシリーズがあるのですよ。)

自分の人生、自分があきらめちゃ終わりですよね。
でも、自分が全然乗れない思考に「その気になる」のも無理なんですよ。
それがたとえ正論であっても全然、心に入ってこなくなるわけです。

みじんも心に浸透してこないんだけど?という感じですよね。

だからその状態をそのまま受容してみたところ、「正論合わないね」という結論になりかけてます。

それって、スピリチュアルな原理のことじゃないですよ。
そういう、私がお伝えしてきた理解・認識を曲げる何かではないのです。

そうではなく、自分で意識してるつもりはなくても、他者を啓蒙するような情報を発信することが多くなってて、
その中でのいわゆる正論みたいなものは私は採用してない、心の自由さを広げられる内容にフォーカスするようにはしていたのですが、

でも、結局、自分が今「人生つまんねー」というトーンに蝕まれるほどの制限につかまっており、それをリアルに見せかける表層の塗装はどんどん剥いでいっていいと思ってる。

自分への呪詛も、しっかり聞けば、そこに本音があらわれてるでしょ?
そこからの脱却も救いも、外からなんてやってきません。
逆にいうと、外から何かを待たなくていいのが祝福だって。

自分自身のハートを自分が言語化していくことで、本当はわかるはずだよね。
自分のナビを無視することはかろうじてできても、残念ながら、ぶっ壊すことはできない私たち。
(残念ながら、じゃなくて最大の恵みか)

自分が自分を翻訳できる能力を使うのは今だって。

★★★「つまようじで食べる話」★★★

私はだいぶ昔から、食事をするときの感覚を自由にとき放つようにしてて、
健康の観念だの何だのはドン無視で、その日の自分のフィーリングで食べたいものを食べているのだが(といっても、あるもので間に合わせるなどテキトーさを含む範囲でね)、

そのときに食べる道具、食器などにも同じ感性を働かせてる。

どんな食器を使いたいか、食べるときに用いるのはフォークか、スプーンか、ナイフは使うか、あるいは箸か?
素材は金属?プラスティック?木?陶器?などなど。
これを瞬時に決めて、そのときごとに選んでいるのだが。

「今はフォークの形状も感覚的にいやだし、箸もちがう…」となったときには、つまようじを使って食べることもしていて、

もちろん素手で食べることも選択肢にはあるのだが、料理や食材によっては手が汚れるし、感触も快適じゃないので、最近はつまようじを使って食べることがそこそこ多くなっていた。

ある日、家族がつまようじを購入して補充したとき、私がなにげなくその話題を出してみたら、家族、爆笑!!

つ、つまようじで…食べてるの!?
と、思いのほか盛大にうけてしまい、その後はしばらく、何度も「思い出し笑い」までされるしまつ。

「つまようじ…笑笑笑笑」みたいな感じで。

そんなに、つまようじで食べることは面白かっただろうか?
一般的なおかずとかであれば、つまようじは道具としてわりとポピュラーではないのか。

串…となるとワイルドさが出てしまいそうだが、つまようじは、試食などでもよく見かける親しみのある道具ですよね?

また、素材が金属やプラスティックでなく木材であるというところも、感覚的に私には都合がいい場合が多いのです。

私の選択肢の中では、いまだ、ありとなっている。

※こちらは私のウェブサイトで公開した記事ですが、note以外にもコラムやエッセイをアップすることがあるよーというサンプルとして今回は載せてみました。


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