父が肺炎になり、緊急入院した。
ここ最近、調子が悪そうだったので、
月に一度の病院に姉がたまたま
付き添った。
こういうのを虫の知らせと言うのだと
思う。
地域のかかりつけ医に行った時には、
もう立っているのもキツかった
ようで、肩で息をしていたらしい。
レントゲンを撮ったら、
肺が真っ白だったので、そのまま
緊急搬送となった。
緊急搬送後の総合病院で
検査をしたところ、間質性肺炎
にかかっている事がわかった。
「多分、そんなに長くないから
なるべく早目にお見舞いに来た方が
良いよ」と姉に言われたが、
芸術祭の細々とした事と仕事を
少しこなして、連絡後の三日後に
お見舞いに行く事が出来た。
父は、この入院期間中、近所に
住んでいる姉や姪っ子、甥っ子、
お見舞いに駆けつけてくれた、
親しい仲間の方に、今まで話して
なかった、話しを延々と話し
続けたそうだ。
酸素マスクをつけたまま、
普通だったら、話せる状態じゃない
のに。
財産が土地くらいしかないから、
きょうだいで揉めないようにとか、
なるべく誰かに住んで欲しいとか、
一緒に活動していた方と旅行に
行った時に食べた味噌田楽が
美味しかった事が良い思い出
だったとか、ウチの孫達は、もう
結婚しても良い年齢なのに、
何で誰も結婚してないんだ?等。
そんな状態で言うの?
今まで、姉が毎週一緒にご飯食べて
いた時も私が病院に付き添っていた時も
ほぼ一言も話さなかったのに!
様子見でかけた電話は、いつも
30秒くらいで切るのに!
死ぬ間際にようやく、色々な人に
沢山の話しをし出した。
もっと早くに話してよ!
今までのツンツンツンツンツンツンツン
状態長くないですか?
(酸素マスクした)何話してるかわからない
状態で50年分位のデレを出されても、
遅いし、わかんないよーーーー。
と、危篤状態の父の前に思ったのだった。
ウチの家庭は、だいぶ特殊な環境で
父は、もうずっと50年以上も所謂、
左寄りの活動をしている人でそれが職業で、
一時期は、市会議員も何期かやっていた。
ずっとずっと、子どもの頃から父の
やっている仕事がよくわからなかったし、
父とあまり父と子らしい会話をした事は、
なかったけれど、父は、いつも私に
真っ当な職について欲しいと思っていた。
それでもなかなか真っ当な職にも就かずに
フラフラしていた私を容認していてくれて
いた。
20歳の頃にフラフラしてるのに、
「一人暮らしをしたい」と言った時も
反対する事なく、母と一緒に三人で
一人暮らしをするオンボロアパートを
探してくれた。
「きちんと年金を納めないとダメだぞ」
父は、その頃からうるさかった。
「どうせ年金なんて、私達の年代は、
貰えるかわからないじゃん」と言う
私に
「そんな事は、ない。きちんと納めて
いたら、貰えないって事は、絶対にない」
と言っていた。
父との会話でとても印象深い。
*
父の危篤の話を聞いて、一緒に
活動をしていた方々が駆けつけて
くれて、色々な切り抜きを持ってきてくれた。
そこには、父が議員時代に取り組んでいた、
防災についての質疑が書いてあった。
こんな事をしていたのかぁと改めて
知った。
今までだって、知ろうと思えば知れたの
だろうけど、知ろうともしなかったのは、
私の方か。
もっと早くに色々、聞いたら良かった。
どうして、鶴を折り続けていたのか?
とか。(父は、いつも鶴を折っていた)
戦時中、どんな体験をして、
何を思ったのか?(父は、小学生の時に疎開をしていた)
どうして大企業を辞めて、全くお金に
ならない職に就こうと思ったのか?
等、気になっていた事がいっぱいあったのに。
あと少し、続きを書きます。