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蒲生氏郷と千利休そして龍造寺 茶室麟閣・興徳寺 福島県会津若松市
東北は冬だと自走派には行きにくい場所。天気が良ければ可能かもしれませんが、防寒フル装備の長距離はいろいろ疲れます。雨ならそれほど問題にしませんが(気分は多少下がる)。
東北にはかつて大藩が幾つかあり、幕末まで存続した地域には独自の文化が根付いています。今回の会津編ではあまりメジャーとは言えない人物を中心に。(ただし夏の話)
福島県の旧国名は陸奥。ざっくりしすぎか広すぎたのか、現在は青森、岩手、宮城、福島の4県に分かれています。そして福島は浜通り・中通り・会津と3つの地方に分けられます。会津若松市は猪苗代湖の西、人口112,000人と会津地方最大で県内第4位の人口を抱える市です。
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長距離では基本のAM3:00に車で出発、お城の開館まで時間調整をかねて磐梯山SAで仮眠。目が覚めて顔を洗うため車外に出ると、目に入った注意書き。
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東北で時々目にする注意書き。この辺りもそんなエリアのようです(磐梯山周辺では猿とか鹿は見たコトがありますが)。九州モンには全く縁のないヤツです(クマ牧場はあるけど)。
鶴ヶ城(会津若松城)
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鶴ヶ城は室町期に領主だった蘆名氏が築いた黒川城がベースです。蘆名氏は伊達政宗(1567-1636)に攻められ滅亡。しかし政宗は豊臣秀吉(1537-1598)の奥州仕置によって会津の地を召し上げられてしまいます。後任として上方から送り込まれたのが蒲生氏郷(1556-1595)。氏郷は黒川城を大改造して近世城郭を築き、鶴ヶ城と名付けます(氏郷の幼名・鶴千代に由来とも)。
その後城主は変遷しますが、江戸初期には将軍・徳川家光の弟保科正之(1611-1673)が入封し、会津松平家として幕末まで続きます。
天守は1965年にRC造での再建、2010年に赤茶の瓦にリニューアル。
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会津の殿様といえば、やはり幕末の主要キャスト会津松平家でしょう。地元も松平家プッシュの印象強し。しかし今回はスルー。
蒲生氏郷という人
氏郷は近江守護・六角家の家臣蒲生賢秀(1534-1584)の子として生まれます。織田信長(1534-1582)が足利義昭(1537-1597)を伴う上洛戦、六角氏は信長に敗れて逃亡。賢秀は信長に降ります。信長は人質として送られてきた氏郷を見て「こいつはフツーじゃない!」と娘婿に(普通ではない人の超即断、氏郷13才)。以降の氏郷は、織田家中で戦功を重ねていきます。
本能寺の変で信長が自刃すると、父と共に安土城の織田一族を保護しつつ明智光秀に対抗し、秀吉が光秀を倒すと秀吉に臣従。
小牧・長久手の戦いの後、伊勢松阪12万石に加増転封。その後も各地を転戦し、小田原征伐後に会津42万石、後に91万石と大抜擢。奥州・伊達政宗と関東・徳川家康の抑えの役割とも。隣国の政宗とはライバル関係のように語られます。
一方、氏郷の魅力は戦闘力の高さだけではありません。茶の湯は千利休の高弟で、和歌を詠み能を舞う。また領内発展のために旧領の近江・松阪商人を招き商業振興を図りました。そしてキリスト教徒にも(洗礼名はレオン)。氏郷の思考や感覚は、氏郷の才能を見い出した岳父・信長に似ています。
才気にあふれ多くの功績を残した氏郷ですが、病であっけなくこの世を去ります。享年40才、神様は無情です。
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いつも気になる氏郷のモミアゲ
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竹茶杓(氏郷作、東京国立博物館蔵:右)
左の茶杓は、細身で節がかなり上部にあるのが特徴。贈答用に製作されたようです。右の茶杓は松永耳庵旧蔵の寄贈品。
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音曲に付帯する古田織部宛の利休書状(右)
共に石水博物館蔵:三重県津市
左の花入は利休が小田原征伐に同行した際に、伊豆韮山の竹で制作したと伝わります。背面に羽忠(氏郷の略称)の署名があり、よーく見ると蒔絵が施されていますが後補。最初は利休から古田織部に送られて、後に伊勢の藤堂家に伝来。
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千利休 書状 武蔵鐙の文 古田織部宛(右)
共に東京国立博物館蔵
同じく利休が伊豆韮山の竹で制作した花入れの1つ。千少庵へのみやげ。花入・書状共に出雲藩主だった松平不味旧蔵品で松平直亮氏の寄贈。
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茶器「双月」添付の氏郷自筆、最高級茶2種の注文書。こちらも羽忠。
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発行:2005年 114ページ
滋賀県立安土城考古博物館では、信長を中心とした特別展・企画展を定期的に開催。全国的に氏郷関連の図録は少なく悲しい。
麟閣
千利休が秀吉の怒りに触れ自刃すると、利休の養嗣子・千少庵(1546-1614)は氏郷の鶴ヶ城に蟄居させられます。この時に城内に作った茶室が麟閣です。
少庵は後に氏郷と徳川家康の働きかけにより秀吉に許され、京都へ戻ります。そして少庵の3人の孫によって三千家(表、裏、武者小路)が興されます。氏郷は少庵を守り、利休の茶の湯継承に一役買いました。麟閣には三千家それぞれの家元による扁額3面が掲げられています。
麟閣は明治維新後に森川善兵衛さんの自宅へ移築され保存、1990年に城内の元の場所に移築復元されています。
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写真で見ると窓が大きいからか室内は明るい印象。雪の多い土地だからでしょうか。
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写真左側の大きなアンテナのそばに氏郷さんの墓があります。
蒲生氏郷の墓と龍造寺
蘆名氏開山の興徳寺は、商店街の裏通りのような場所にあります。司馬遼太郎の街道をゆく「白河・会津のみち」でも触れられていて、境内にはその案内が。
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跡継ぎの秀行(母は信長の娘:1583-1612)によって建てられた五輪塔。氏郷は京都で亡くなっていますが、遺髪が収められています。当時は御霊屋もあったそうです(戊辰戦争で焼失)。合掌そしてアーメン。
多くのお墓をぐるーっと回って見ていると、古そうなお墓が目に入ります。石碑の説明を読むと・・・
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オーッ まさかの龍造寺!
龍造寺氏は肥前の大名でした。一時は九州を三分する程の勢力を誇りましたが、島原半島で薩摩島津家と激突し大将の隆信は討ち取られてしまいます。紆余曲折があって龍造寺家の実権は、家臣の鍋島氏へと移行します。
江戸初期に、僧となっていた隆信の曾孫・伯庵が出てきて幕府にお家再興を嘆願します(何を今更的な)。当然のように却下され、会津松平家にお預けの身になります(いわゆる鍋島騒動)。その一族は会津藩士となって存続していました。
東北で龍造寺に出会う。こういうのを青天の霹靂というのでしょう(バイク乗ってれば、天気雨は珍しくないけど)。以前に足を運んだ時には気が付かず。氏郷さんのお墓ももう少し雑然としていたような気がします。
会津の歴史と言えば会津松平家が王道でしょう。しかし蘆名以降、松平以前には、伊達政宗、蒲生家、上杉景勝、加藤嘉明とメジャー級の武将が名を連ねています。彼らを起点とした足跡はまた別の機会に。東北は広すぎる。