京から江戸へやって来た超老舗和菓子屋【饅頭編】 塩瀬総本家 東京都中央区
ネット上には食レポと呼ばれる飲食系のコンテンツがあふれています。
老舗から話題の最先端のお店まで、読者の興味を引くためでしょう刺激強めのワードが並びます。
2020年の日経新聞に、山本嘉次郎というグルメな映画監督が自ら食べ歩いた飲食店1,000軒をコメント付きのマップにして1972年に出版という記事があります。現代の食べログ的なものでしょうか。
50年前も今も人の興味はそれほど変わっていません。ただし記事には、現代の飲食店は数年先の予約を入れる時代になったと。
そんなネット媒体からの攻勢に押しまくられる紙媒体で、和菓子屋の情報を得たのは2年前。
トビラの主は松永久秀。歴史に詳しくない人には、どこの誰だか分からない人かもしれません。戦国好きには一筋縄ではいかない興味深い人。
トーハクのミュージアムショップには、スロープの通路を有効利用して全国にあるミュージアム発行の図録を並べるコーナーがあります。
中には現地でなければ手に入りにくい地方出版社の書籍も。
そこで目に入ってきたのが松永久秀の文字。
手に取ってみると、ゆるキャラのようなタイトルがついた奈良の歴史系?地域情報誌ならら。
はじまりは松永久秀
松永久秀(1508-1577)は、三好長慶(1522-1564)の家臣。三好家中で頭角を現しやがて重臣に。梟雄とか下剋上の体現者と称される人。
主君を陥れ、将軍を抹殺し、東大寺大仏殿に火をかけた大悪党とされていましたが、近年は久秀研究が進み、主君と併せ織田信長(1534-1582)に先んじた人たちと評価が上昇中。
ちなみに奈良のお隣の四条畷・大東市あたりでは三好長慶を大河ドラマに!運動が展開されています(久秀さんは主要キャストの1人)。
長慶没後は織田信長に接近しますが、後に反旗を翻し居城信貴山城(奈良)で織田軍に攻囲され、名物茶釜平蜘蛛と共に爆死したといわれています。
2020年に高槻市立しろあと歴史館が、新発見の久秀像を発表(なららの表紙の肖像)。
その特集記事の中に、室町以来の老舗饅頭屋の記述がありました。
ただし当時はそんな和菓子屋があるんだーという程度。
それから半年ぐらいして、別の雑誌で似たような和菓子屋を目にします。
なららで確認すると同じ名前のお店。
あんこ特集だったので違和感はありませんが、この饅頭屋のフツーではない歴史が解説されています。
なららもブルータスも饅頭の味というより、その歴史にフォーカス。
塩瀬総本家
東京都中央区明石町7-14
塩瀬総本家のHPには「塩瀬は670年余りの間 饅頭を通じて和菓子と向き合ってきました」とあります。企業情報の沿革は1349年のスタート! 時代毎にエピソードが掲載されていて、裏付けの古文書等があるようです。
またしおせミュージアムというコンテンツはとても興味深い読み物(ある程度の歴史知識がないと脳みそがフリーズするレベル)。
スイーツ好きの知人に話をすると、銀座か日本橋のデパートのお店に足を運んだそうです。でも売り切れ。お店の人の話によると、ブルータスのおかげで売り切れが増えたと。雑誌の影響力もなかなかのモノです。
それではというコトで本店へと出陣。
開祖:林浄因
塩瀬総本家の祖林浄因は、元に渡っていた日本の禅僧龍山徳見(建仁寺35世:1284-1358)に師事し、師の帰国に随行して1349年に中国から来日。南北朝期の戦乱を避け奈良に住み、饅頭を作りはじめます。小豆餡を入れたのがポイント(紅白饅頭も作っています)。
饅頭は後村上天皇(1328-1368)に献上されるほどの評判に。師が亡くなると妻子を残して中国に帰国。
奈良県奈良市漢国町2
奈良市漢国町の漢國神社内には、林浄因を祭った林神社があります。
日本唯一の饅頭の社。ちなみに林家のお墓は建仁寺の両足院。
饅頭その1
浄因帰国後に子孫は奈良と京都に分かれ、京都の林紹絆(中国へ饅頭留学し、薯蕷饅頭を研究・開発)は、応仁の戦乱を避けて三河の塩瀬村(奥三河)へと移り、塩瀬を名乗ります。
大和芋を使用したスタンダードなお饅頭。
饅頭その2
戦国時代には豊臣秀吉や徳川家康からも愛されています。長篠の戦いに際し、家康へ献上したのが本饅頭。家康は兜に盛って軍神に供え、戦勝祈願したそうです(別名兜饅頭)。
ちなみに塩瀬村は長篠とは目と鼻の先の距離。しおりには長篠合戦図屏風(たぶん徳川美術館蔵:愛知県名古屋市)がデザイン。いいセンスです。
極薄の皮が特徴だそうですが、ほぼ丸ごとあんこです。いいお値段(サイズも大きい)ですが、個人的には好み。
江戸開府後に林家は江戸に移り、饅頭は江戸でも名物に。そして現在に至ります。
松永久秀と林家をつなぐキーパーソンが宗二さん、本饅頭を考案した人。
林宗二(1498-1581)は儒学、国学、神道に精通した和漢学者。三条西実隆(1455-1537)とも親交があり、古今伝授を受けています。
連歌にも通じ、源氏物語の注釈書「林逸抄」を執筆、国語辞書「饅頭屋本節用集」を出版。もはや饅頭屋さんの域を超えています。
奈良では久秀と親交があり、饅頭の独占販売権を与えられています。また宗二さんは、久秀の許にいた清原枝賢(1520-1590)が楠木正虎(久秀家臣)に与えた「六韜私抄」を書写しています。
久秀をはじめ三好家中は戦一辺倒ではなく、和歌に連歌や茶道にも通じた数寄者の一面も持っていました。林家もそういった素養を持ちながら、久秀との付き合いが広がっていったのでしょう。
ちなみに宗二の孫宗味は、千利休の孫娘を妻にしている茶人です。紫色の塩瀬袱紗を考案・販売(今日の袱紗の原型)しています。
饅頭屋さんは室町将軍足利義政(1436-1490)から直筆の看板を下賜されています(オリジナルは東京大空襲で焼失、現在の看板は資料を元に復元したモノ)。また五七の桐紋は後土御門天皇(1442-1500)からの拝領。
塩瀬総本家さんでのお目当ては、饅頭よりこの看板。
政治においては目立った結果が残せなかった義政さんですが、文化面ではいろいろと日本の伝統的スタイルの起源に。
鎌倉期から江戸期において、饅頭屋さんの看板を残した将軍がいたでしょうか。よっぽど美味しかったのでしょう。
500年後でも食べてみれば分かります。
前述の映画監督嘉次郎さんは、1,000軒の中に本当に推す店をいろいろ潜ませながら「わざとその店を指摘しなかった」と述懐していたと記事にあります。そして「うっかりそんなことを書こうものなら、たちまち餓狼の巷と化してしまうからである」とも。
皆まで言わないのは常連さんならではの視点。
自分で探して見つける方が楽しいとは思いますが、時間を惜しむのが現代人のスタイル。
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