キリシタンの記憶が眠る豊後最大の藩 【竹田市歴史文化館・由学館:隈研吾3】 大分県竹田市
何もない田舎というイメージが今も変わらないのは小さい頃の記憶から。子供の頃の自分には文化や歴史の価値を理解できず、またその価値を見い出せるだけの知識もありませんでした(時々直感的にその価値を理解するチビッ子には驚かされますが)。
EX豊後の住人にとって確立された竹田のイメージは、「阿蘇への途中にある山の中で、延々と荒城の月が流れる土産物屋」。
竹田市は大分県の南西端に位置し人口は19,000人。県内では2番目に人口の少ない市ですが、見方によっては地形によるナチュラルなコンパクトシティ。
豊後の国は鎌倉以来の守護大名大友氏により統治され、その政治・文化の中心は府内(大分市)でした。
江戸時代には大藩がなく小藩に分割されています。
府内藩 22,000石 大給松平家(親藩)
杵築藩 32,000石 能美松平家(親藩)
岡藩 70,000石 中川家
日出藩 30,000石 木下家
臼杵藩 50,000石 稲葉家
佐伯藩 20,000石 毛利家
森藩 14,000石 久留島家
親藩松平家、かなり濃い目の豊臣系大名に村上水軍と戦国時代が集約されていますが、地生えは皆無という特殊な状況。
国主クラスの大藩が統治した地域には県全体にその歴史が残り、それらを追いかけてまわる楽しみがありますが、小藩ではさほど広くないエリアでその濃縮された歴史を見るコトができます。
今回の岡藩(竹田市)はそんな地域(豊後最大の藩ではありますが)。
竹田市歴史文化館・由学館
大分県竹田市竹田2083
竹田歴史文化館の開館は2020年(前身は竹田市立歴史資料館)。市民ギャラリーや企画展示室を持ち、岡城ガイダンスセンター(無料)を併設。展示されるサンチャゴの鐘(重要文化財)が目玉か。有料の企画展は田能村竹田の旧住居とセット料金設定です。
ミュージアムのアイコンは建物から。
エントランス部分を見れば何となく分かる隈研吾(1954- )の設計。あちこちで目にする機会が増える一方ですが、栃木の美術館については最近メディアから批判気味の報道がされています(メンテナンスの状況が詳しく報道されていないのでよくは分かりませんが、木造部分の外装は25年も経てば劣化するのがフツーでは。特に隈建築支持派ではありませんが)。
歴史文化館も例にもれず和のイメージで、化粧板を多用しています(竹でもルーバーなのか?)。根津美術館の竹バージョン的で、ゆるい木賊張りのようにも。ちなみに大分県は竹細工で知られています。
ちなみにですが同じく隈さん設計の宮城のミュージアム。こちらは屋根の素材スレートをアピールしていてアイコンは同じデザインの文脈。
無料展示スペースは一部を除き基本撮影可能。
藩主家中川氏
中川氏は摂津の国人。戦国時代末期に中川清秀(1542-1583)が武勇で頭角を現し、織田信長のちに豊臣秀吉に臣従。秀吉の統一事業の序盤戦賤ケ岳の戦いで清秀は戦死。嫡男秀政が跡を継ぎますが、唐入り(文禄の役)で戦死してしまいその弟・秀成が相続し豊後岡に。
関ヶ原の戦いでは九州で黒田官兵衛、加藤清正らとともに東軍・家康方として転戦。
ちなみに秀成は賤ケ岳の戦いで父・清秀を討ち取った佐久間盛政の娘を正室に迎えています。
中川家と所縁があると考えられるのがサンチャゴの鐘。
サンチャゴの鐘(重要文化財)は「未だ謎のベールに包まれたキリシタンの遺物」だそうです。由来等がほぼ不明という謎の鐘ですが、日本で鋳造されたと考えられています。鐘にはHOSPITAL SANTIAGOと記されていますが、スペイン語で聖ヤコブ病院のコト。1612年当時はその名前の施設が長崎に存在していたそうです。この鐘は特別扱いの特別室で撮影不可。
中川家の家紋の1つが中川クルス。清秀が本拠だった畿内摂津でキリシタン大名和田惟政を討ち取ったことから家紋に加えられました。
摂津では高山右近もキリシタン大名として有名。
織部灯籠は城下でかつての古田屋敷のあたりにあった灯籠。千利休の高弟の古田織部(重然:1543-1615)は中川清秀の妹を娶り、清秀が戦死すると年少だった嫡男の後見役も務めています。そして織部の従兄弟は中川家の家老に(織部や子供たちは大坂の陣後に切腹し本家は断絶していますが、九州では中川家と縁戚になった豊後古田家が幕末まで存続)。
大友家由来なのか中川家由来なのかはよく分かりませんが、豊後にはキリシタンの足跡が数多く残っています。中川家自身には明確なキリシタンの証拠はないそうですが(幕府の目もあるし)、摂津からの流れでは周囲に著名なキリシタンも多く、豊後古田家も含めまったく関係がないとは言えそうにありません。
竹田市もそういう雰囲気を醸し出しています。
岡城跡
岡城は、豊後の国人・緒方氏が源義経を迎えるために築城。室町時代に豊後守護大友氏の庶流・志賀氏が拡張しています。
戦国時代末期には九州で北部侵攻を進めた島津氏を志賀親次が撃退(親次はドン・パウロの洗礼名を持つキリシタンで、対峙したのは島津家随一の猛将島津義弘)。
結果的に豊臣秀吉傘下に入った大友氏でしたが、秀吉の唐入りで当主大友義統(吉統)がヘタをうち改易。
変わって播磨からバリバリの織豊大名中川秀成(岡藩初代:1570-1612)が入封して岡城をさらに要塞化(織豊大名の十八番)。
石垣のみ現在も残っていますが、最も高い石垣で21m。平地でなく山の上にあるので、攻城方の気持ちが萎えること間違いなしの堅城。2本の川を外堀とする天然の要害で、城下町を内包する惣構を構築。
10年ほど前の集中豪雨で川が氾濫した時は竹田市の中心部は分断されていましたが、過去の領主はそういう地形を利用しています。
遠く西には阿蘇山。左下に見える駐車場にはかつては土産物屋があり、四六時中滝廉太郎の荒城の月が流れていました(昭和の観光地の典型)。無くなって素直に良かったなと。
城跡から望むくじゅう連山。その中の大船山は・・・
人馬鞍
中川久清(1615-1681)は三代藩主。日本人離れした容貌と説明されますが、インパクト強過ぎのマンガ的な肖像画。入山公と名乗るほどくじゅう連山の大船山を愛した人(ちなみに久清さんの墓所は大船山にあります)。
愛したとはいうものの久清さんは足が悪かったようで、自らの足では登れなかったそうです。ところがそんな問題など軽―くクリアするのがこの大名のスゴさ。
登山ために御乗鞍(馬の鞍から改良されたモノ)を開発し、その現代版がこの人馬鞍(富士山で物資を背負って運ぶ剛力の人間版か)。
親子でのチャレンジ体験のみ絶賛受付中。
文化館の裏側にあるエレベーターでちょっと登ります。
竹田荘
田能村竹田(1777-1835)は豊後南画の祖、文人画家。岡藩の侍医を務める家に生まれています。藩校由学館に出仕し京都、大坂へと遊学。藩内で一揆が起こると建言書を書いています(藩主に提出されたか不明)。隠居後に長崎、京都、大坂を遊歴し、大坂の岡藩屋敷で亡くなっています。
大阪にいた時には文人関係で結構その名前を目にしています。
竹田荘は江戸期に建てられた竹田さんの住宅。火災から1790年に再建され、本人により改修や増築も。母屋は1932年に修理されていて、同時に補拙盧や草補拙盧も再建。さらに1982年に解体復元修理済。日当たりが悪い土地だそうです。
頼山陽(儒学者、歴史家:1781-1832)は竹田さんを訪ね、2日間宿泊しています。
キャプションの山陽さんのホメ言葉が面白い。画力だけでなく精通していた中国の古典や詩歌も含めてのようです。
現代でもお酒を飲みながら詩を楽しむような人たちがいるのでしょうか?
よほど気が合いその才能を認めていたのか、山陽さん(ベストセラー作家としても知られる)は各地で竹田さんの才能や作品の素晴らしさをホメていたそうです。そのせいか竹田評は急上昇し、竹田さんは旅先で大歓迎に。
南画に求められる詩と書と絵画の3つの要素すべてが高レベルにあった竹田さん。自分が子供のころは「竹田の竹田」って変なヤツと思っていましたが、その交友リストを目にするとスゲーヤツでした。
万巻の書を読み、万里の路を行くを実践した人。
補拙盧は1826年に建設。土間と6畳間と3畳間で構成される弟子たちのアトリエ兼住居。明治末期に倒壊していますが復元。
草補拙盧の1階には1畳半と4畳半の茶室が。明治期に取り壊されていますがこちらも復元。
画聖堂は竹田さんを祀る廟。1938年に竹田100年祭記念事業として完成。設計は池田三比古で、別府の竹瓦温泉(1938年)も手掛けた竹田の人。
竹田さんの作品は大分県内に多く残されていますが、参考に手持ちのトーハクコレクションから
山陽さんのオーダーで制作された画。竹田さんは京都に向かう途中で山陽さんの死を知らされ、共通の友人青木木米に贈られたというヒストリーが。
詩と書と下絵が三位一体となった作品。
小藩がベースの町に残る文化は濃いコトを実感します。そして西日本での歴史のつながりも。
個人的には竹田におけるキリシタンの謎の部分を少しでも解明していただければと。今なおよく分からないというのはどうなんでしょう。
豊後(大分)の観光コンテンツはだいたい温泉が筆頭に挙げられますが、その歴史・文化は想像以上に重層的です(大友氏関連も絶賛整備中)。