見出し画像

関西の数寄者 逸翁美術館 大阪府池田市


ミュージアムのカテゴリーの中で、実業家の個人コレクションから始まる私立ミュージアムはその人の個性というか趣味が見えて面白い。明治から昭和にかけての実業家系ミュージアムには、そのハンパではない財力で蒐集した所蔵品に国宝や重要文化財もあり、展示のお目当てにもなってます。
前回の記事、山梨県立美術館編でその名前を連ねていた阪急の人小林一三こばやし いちぞう(1873-1957)もそんなミュージアムを残している1人で、関西は大阪にその美術館があります。


逸翁美術館


大阪府池田市栄本町12-27

池田市は大阪府北部に位置しています。人口は103,000人。思ったより少ない印象(面積が違うので単純比較できませんが、お隣の大阪府豊中市は399,000人、大阪府箕面市136,000人、兵庫県伊丹市195,000人、兵庫県川西市154,000人)。
逸翁美術館は背後に五月山が迫る池田の市街地北端にあります。池田城跡が隣接し、山の手という感じの住宅地に囲まれています。


美術館は小林一三の自邸「雅俗山荘」に1957年開館。2009年に現在地に移転(雅俗山荘は小林一三記念館に)。小林一三収集の5,500件を所蔵(重要文化財15件含む)。設計は竹中工務店。マグノリアホール(音楽ホール)を併設し、阪急・宝塚関連の資料類を収集する池田文庫が隣接しています。


館内には雅俗山荘にある逸翁考案の茶室を再現
阪急昭和モダン図鑑展 チラシ
2023年4月-6月

以前の訪問時にはよく知られている「豊臣秀吉像」(伝狩野光信筆:狩野永徳の子)を見た記憶があります。所蔵品の個人的な白眉は「佐竹本三十六歌仙 藤原高光」なのですが、ココでは出会えず(後の京都国立博物館での三十六歌仙大集合でご対面)。
2023年訪問時の展覧会はやや興味の対象外。まあそういうコトもあります。また来ます。

小林一三という人


小林一三は現在の山梨県韮崎市の出身。酒造や絹問屋を営んでいた豪商「布屋」に生まれます。1月3日生まれなので一三と。慶應義塾から三井銀行に入行しますが34才で銀行は退職し、現在の阪急電鉄の前身となる会社立ち上げに加わります。
鉄道事業と沿線の宅地開発に加え、ターミナル駅の百貨店等の相乗効果を見込んだビジネスモデルを構築。関東でも東急グループや東武グループが同様のモデルを展開していますが、阪急グループは東宝や宝塚歌劇団とエンタメ系にも注力した点が特徴。かつては傘下にプロ野球球団の阪急ブレーブスも(もはや記憶がかすかな昭和の話)。
一三は茶の湯に熱心で「逸翁」という号を持ち、いわゆる「数寄者」と呼ばれた1人でした。


J・W・L・フォスター作(誰?) 小林一三記念館
 小磯良平作のカッコいい肖像画もあったが、そちらは撮影不可

その小林逸翁の旧宅が現在は小林一三記念館になっています。逸翁美術館から徒歩5分ほどの距離です。


小林一三記念館



東能勢村(現在の豊能町)から移築されたと伝わる庄屋さんの長屋門
豪邸の必須アイテム
茶室「人我亭」 扁額はよく見えませんが松永安左エ門

敷地内には当然のように茶室があります。
こちらは人我亭。扁額は逸翁の茶飲み友達にして電力王の松永安左エ門まつなが やすざえもん(耳庵:1875-1971)。東京国立博物館や福岡市美術館にお宝をたくさん寄贈してる人。


京都から移築された「費隠」

こちらは元内閣総理大臣近衛文麿このえ ふみまろ(1891-1945)に命名された費隠。逸翁が近衛内閣で商工大臣を務めて以来の縁だそうです。

茶室の腰張りには何やら名前と花押がズラリ 読めない(涙)
揮毫は近衛文麿さん
資料展示室 中央は逸翁さんの帽子とステッキ


阪急電鉄系資料 きっぷや出版物


百貨店系資料 商品券やら包装紙やら


歌劇団系資料 エンタメ系はよく分からない


高すぎる天井

資料室には逸翁ゆかりの人々が紹介されています。実業家系の茶人はもちろん、政財界から文化人がズラリと並びます。


ピンボケに見える変わった模様が面白い 目が疲れるやつ
同上


家系図 曾孫にはくいしん坊で元テニスプロの名前も

入り口近くには小林一三生誕150年周年(2023年時)のポスター
宝塚OGも参加 なんだかキャストがスゴイ
お庭は高低差もあり変化に富む
とにかく緑に囲まれている


小林一三さんについては逸翁美術館で手に入れた図録が分かりやすい。

発行・編集:逸翁美術館 2009年 147ページ
発売元 思文閣出版 絶版?

ISBNが付いているので、ちょっと古いモノですが書店でも入手可能かもしれません。
図録は写真や図版が多く、専門書ほど内容が堅苦しくないのが良い。内容があまりに専門的すぎると、だいたい後半に挫折しがち。

逸翁の茶の湯は基本を守りつつ、新たな工夫を加えていたそうです。例えば道具に西洋のモノを取り入れたり、椅子に座っての喫茶、茶菓子にカステラを使ったりと。

図録の熊倉功夫さんの論考には

小林逸翁をはじめとし松永耳庵(安左衛門)、畠山即翁(一清)といった人びとを最後の数寄者と呼ぶ一つの理由は、明治以来、数寄者が育んできた「幅広い教養に支えられる茶の湯の伝統」が、この世代でとぎれるからである。

茶に湯の文化と小林一三 逸翁美術館編

とあります。
伝統には新しいモノを加えてこそ次の世代へと繋がり、そのためには幅広い分野に精通しておく事がキモなのでしょう。

何かと早く結果を出す事が求められがちな現代。余計なモノと思われた知識や経験が、何かのキッカケで新たな発見のトビラを開く話も耳にします。
そういった知識や経験の蓄積を教養と呼ぶのでしょう。

哲学というほど大袈裟なモノではないけれど、そんな思考や視点を教えられるのがミュージアムの面白いトコロ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?