石州瓦の100年ミュージアム その1 れきしーな 益田氏・医光寺 島根県益田市
石見は山陰の西部にある地域です。その石見は益田にあるグラントワというカッコよくて美しいミュージアムを訪れてみると、鎌倉以来の歴史を持ちかつては貿易により栄えた地域という全く予想しなかった一面に出会えました。グラントワには博物館の機能はなかったので、小さな自治体でもほぼ必ず見かける歴史資料館に足を運んでみます。歴史民俗資料館というと地味な印象ですが、歴史を知る入口という意味では、興味深いコトが見つかる場所です。
れきしーな(益田市立歴史文化交流館)
益田市歴史文化交流館(以下れきしーな)は、以前の益田市立歴史民俗資料館です。建物自体にも歴史があり、築100年を越えています。
れきしーなは大正期の1921年に美濃郡役所として建てられ、後に益田警察署等を経て1983年に歴史民俗資料館となります。そして改修工事を経て2023年に交流館として開館します。資料館時代は役所というより昔の小中学校的な雰囲気でしたが、改修工事によって内装は現代的でキレイな施設へと生まれ変わっています。交流館は資料展示コーナーと観光情報の発信を前面に押し出しています。
島根県益田市本町6-8
三宅御土居は南北朝時代から関ケ原の戦いの頃まで約250年間に渡りこの地域を拠点とした益田氏の居館です。れきしーなの北側を流れる益田川の対岸あたりに御土居跡として残っています。
訪問時は雪舟の郷記念館と合同での特別展が開催されていました。
これは2022年、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)で開催された企画展の里帰り版とスタッフの方に教えていただきました。歴博では雪舟筆益田兼堯像(重要文化財)が出展されていて、なんだか得した印象を持った企画展でした。偶然の再会です。
石州犬は柴犬のルーツだそうです(アピールが地味でパンフがさりげなく置かれていました)。
益田氏とは
益田氏は藤原国兼を祖としています。平安時代に石見へ役人として下向し、そのまま土着して国人化した一族。初期のころの本拠は浜田で御神本氏を名乗っています。室町時代には西国の有力大名・大内氏と行動を共にして、室町将軍から偏諱を受けるなど有力な国人としての地位を築いていきます。大内氏が家臣の謀反により弱体化すると、台頭してきた毛利氏に臣従します。そして毛利氏が関ヶ原の戦いで周防・長門の2ヶ国に改易されると、毛利氏に従い益田から須佐(山口県萩市 長門の国の益田寄りの地)へ移ります。毛利家には家老として仕え、明治に至ります。
益田氏のスゴさを知った2017年の展示です。全国的な知名度はさほど高くはないと思われますが、熱量がハンパない特別展でした(なにしろ図録が厚い)。
益田兼見のお墓は、れきしーなから川を渡ってすぐの所にあります。お墓は昭和期の豪雨災害の復旧で、現在地に移設されています。
トップ画像はお墓あたりからの眺めです。写真では橋を渡って対岸の右側にれきしーなが見えます。写真の右側ギリギリにはグラントワが。石州瓦の色合いも変化があるそうです。
医光寺には雪舟作と伝わる庭園や雪舟灰塚が残ります。
雪舟さんは大喜庵(雪舟の郷記念館のそば)で亡くなりますが、崇観寺(現在の医光寺)で火葬されました(お寺の格式の問題らしい。崇観寺が上)。そして遺された記念碑が雪舟灰塚だそうです。
涙でネズミの絵を描いた伝説の人。
益田氏は応仁の乱では上洛してブイブイ言わせていますが、宗兼も大内氏らと将軍・足利義稙(1466-1523)を擁立して都でブイブイ言わせています。
れきしーなのスタッフのお話では、毛利氏ははじめ益田氏を滅ぼす考えだったそうです。しかし益田氏のもつ交易のノウハウや益田での統治能力を考えてパートナーにしたそうです。どちらも共に鎌倉から続く古い家系で、家名を残す意味を重々理解している人たちです。
幕末の33代当主・益田親施は、禁門の変で責任を取って自刃した毛利家の三家老の1人です。毛利家の盾となった人。
いろいろ教えていただいたスタッフの方は歴史に詳しく、学芸員さんかと思っていたらガイドスタッフさんでした。「勉強中です!」と言われていましたが、知識が歴史オタク的で普通ではありません(よくいる地元の郷土歴史家的なおじいさんではなかった)。テキストを丸暗記で歴史や観光名所を説明するタイプではなく、素人からの変則的な質問にも対応される方で、益田の奥深さをチラリと見た気がします。
益田氏最初の拠点となった浜田市は、益田のれきしーなから東へ40kmほどの距離です。浜田にも100年を超える歴史をもつ資料館があります(開館は最近ですが、こちらも紆余曲折が)。
つづく
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