【精神分析】檻の中の神/人間関係と支配欲
神は死んだ。権威としての「神」は否定され、全員がそれを知っている。
しかし、「神=ファルス」として父権を握ろうとする欲動が、他人を支配しようとする欲動はまるで生ける死者のように湧き出てくる。職場で、恋愛の中で。イニシアチブを取ろうと言う欲動。あの先輩のように後輩を従えたい。友達の中で一番ゲームが強くないと気が済まない。
「権力への意思」は中にはいいものもあれば悪いものもある。悪趣味なものを定義づけるのは、つまりはオイディプス的な、ドメスティックな関係性の檻の中で神のファルスを見せびらかそうと言う権力への意思である。
それは自身を「神」として、相手にとっての「大文字の他者」として、自身のファルスを擦りつけようとする。これが「神」だと言って。これは強姦的でもあり、悪趣味にもその優位性に快感を覚える。
その意味でジジェクが言うように「神は死んでいるが、死んだことを知らず」むしろ、無限に湧き出てくる欲動として、主体を支配しようとする。
他者にとっての「大文字の他者」であろうとすること。
これ自体、父権を取ろうとするものが「オイディプス的な檻」を恣意的に作り出し、その中に相手の「対象a」監禁し、そのドメスティックな檻の中で「父=神」として君臨する。自身が神になろうとすることで、最もオイディプス的な権威に憧れを持っているのは、その「檻の中の神」自身である。同時に、檻の中の服従者は「神」にとっての「大文字の他者」なのだ。
神はその服従者の眼差しなしに神ではいられない。自身の美的感覚などあてにならない。服従者と思っている彼の中の対象aでしか自身の価値を認識する事ができないのである。この檻の中で最もオイディプスに囚われているのは「神」自身である。この神は、自身のファルスが立派なものであるかどうかを見てもらわなければならないし、そして他人からの称賛がなければならない。「神」のリビドーは他者なしには成立しない。自由とは程遠い価値基準、非常に依存的で、なんともちっぽけな欲動である。
フロイトの精神分析とオイディプス的なもの
「盲信の対象」「命令するもの」としての「神」はオイディプスとセットでもある。だから「神」は死んでいたり、死んでいなかったりする。
オイディプス的な構造は社会でよく見る事ができる。官僚的組織や古い伝承の中で最もよく起こる。フロイト的な、比喩としての「エディプス・コンプレックス」はこれらの「信じられているもの」の文化の中でよく見られる。それは「シニフィアンの専制」であり、オイディプス的な構造をしている。君主である神。命令としての満ちたパロール。
だから、フロイトは古いものとして扱われながらも「オイディプス的なもの」が存在していれば比喩的に分析道具として使うことは可能であり、その囚われの中の分析道具として機能する。
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ラカンのL図に表されている関係は、ラカンが一般化したエディプスコンプレックスの図である。
だから、われわれは「檻の神」のような悪趣味な意味の関係性を切断し、その檻を破壊し、その閉じ込めを無価値なものとしてゴミ箱に捨てなければならない。遊ぶ子供のようなゼロ地点としての器官なき身体であること。
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