4. 西日本豪雨とカモンベイビー西日本。
瀬戸内サニー株式会社の創業5周年の社史「#瀬戸内サニーのヒストリエ」。4本目となる今日の記事は、弊社が自主企画をした復興応援動画「カモンベイビー西日本」についてです。
2018年7月頃、会社としてインターネットテレビではない違う形のプロダクトを事業として模索しているとき、突然の豪雨が西日本地域を襲いました。そう、数百人もの方が亡くなられた西日本豪雨です。
ちょうど防災企画を進行しているときでした。
創業当初から「瀬戸内地域から世の中を面白く照らす」が、瀬戸内サニー株式会社の理念です。災害や人口減少などの困難が多い時代に向けて、それでも前を向いてかろやかに生きていける地域社会を目指して、会社を設立しました。
また、僕個人としても、幼少期に阪神淡路大震災を経験。大学生時代にニュージーランドのクライストチャーチ地震で友人を亡くしたことがきっかけで、寄付プロジェクトを当時の留学生仲間で立ち上げたり、東日本大震災では香川県にもボランティアツアーの支部をつくるなどの活動をしていました。なので、創業年度から防災に関する取り組みをしようと考えていました。
ちょうど西日本豪雨が発生する1ヶ月前、香川県のある自治体には女性防災プロジェクトがあり、そこに問い合わせをして提案をしました。ただ、当時うちの知名度もそこまで高くなく、地方ではインターネットへの仕事に対する理解もなかったので提案は通りませんでした。正直出来ない理由を探している大人たちだなあと思っていました。
晴れの国でまさかの豪雨。
それから1ヶ月後、6月28日から豪雨が発生しました。僕が住んでいる香川県は雨が少ない地域なので、「これで水不足問題は解消されるなあと」としか、最初は考えていませんでした。ただ、数日後、最悪の自体が起こりました。
岡山や広島、愛媛などの地域で、信じられない光景が広がっていました。特に岡山県の真備町の被害は甚大で、濁流に飲み込まれていく民家、Twitterでは「#救助要請」や「助けてください」などの言葉を含む、信じられないようなツイートが多数されていました。正直何が起こってるか良く分からない状況でした。
岡山は晴れの国で知られている地域。災害も少なく、移住候補先として人気の地域でもあり、もともと兵庫県の西の方の生まれの自分にとっては馴染みのある地域でした。自分も何かできないか。災害が起こっている10日間で、自分が出来ることを考えました。
その中で3つ思いつき、行動にうつしました。1つめはCAMPFIREを活用して高校生大学生を被災地に連れて行くボランティアツアー、2つめは復興に関する啓蒙啓発をするライフサポート番組、そして3つめは復興応援動画プロジェクト「カモンベイビーオカヤマ」でした。
1つめ2つめの取り組みはいわゆる瞬発的に被災地の復旧を後押しするもの、3つめの復興応援動画プロジェクトは今後起こりうる風評被害に対しての取り組みでした。
東日本大震災のときも風評被害が大きく、それが世の中の東北に対するイメージを含め、復旧復興を遅らせていました。それであれば、少しでも風評被害を抑制し、復旧復興を前向きに進めていく世論を作っていくような取り組みをしたいと思いました。
どうすれば世の中に影響のある動画を作れるか。普段からPRプランニングのお仕事や東京時代に音楽レーベルの方々とお仕事をしていたので、思いついたのは、「二次創作の波」に乗るでした。
「恋するフォーチュンクッキー」や「恋ダンス」など、ダンス系の二次創作に乗っかれば大きな広がりを見せてくれる。そこで当時流行ってる曲を色々と調べていたときに出てきたのがDA PUMPの「U.S.A.」でした。
「カモンベイベイビーアメリカ、、、カモンベイビーオカヤマ」、これだ!
数時間で企画書を書き上げて、次は岡山で手伝ってくれる仲間を探しました。そこで岡山の同世代の友人黒住くんに連絡をしました。彼とは起業直後、東京の友人起業家経由で繋がるきっかけがありました。岡山の由緒正しい宗教団体の跡取りで、「ダライ・ラマとこの前会ってさ」なんていうことをサラッと言うような、いい意味で凄くて変わった存在でした。
一度一緒に飲んだこともあったので、思い切ってメッセンジャーで企画書を投げたんです。そしたら、「これすぐにやろう!!!」ってなって。彼も岡山のために必死で、その必死さがメッセージから感じられました。
なので自分も「よし、やるか。」と思って、当時チームで動いていくれていたビデオディレクターのタクちゃんと一緒に数日分の着替えと、撮影機材などを詰め込んで車に飛び乗りました。
40度近い炎天下、過労で死ぬかと思いました。
他にも岡山のラジオ局で働くディレクターの方も加わり、現地調整と撮影。約数日間、ほとんど寝ない状態が続きました。精神的にも肉体的にもピークな中、黒住くんとは宿や車の中で口論しまくりました。「それ最終的には責任を持つのうちの会社なんだぞ...」と何度思ったことか(笑)
今だから言いますが、黒住くんがどんどん人を巻き込んでいくんです。なので、調整が大変で大変で。途中で彼を巻き込んだことを後悔する自分もいました(笑)
あと、真面目な話をすると、メディア企業として、被災地で撮影をするのは普段の10000倍以上の神経を使い、疲弊するものでした。撮影もビデオカメラではなく、すべてスマホで行いました。投げかける言葉ひとつひとつに細心の注意を払いました。
ただ途中から、こっちは慎重にやりたいのに、黒住くんがあまりにも色々ぶっ込んでくるので、「もういいや。ここまで攻めたことやってるんだし、もっと攻めても変わらんか。」と思うようになって吹っ切れる瞬間がありました。あと会社のキャッシュが頭をよぎることもありましたが、会社の理念に背くようなダサいことはしたくないと思い、攻め続けました。
それ以上に被災された方々の方が大変だと思いながら頑張っていたのですが、僕自身も熱中症で倒れてしまいました。改めて、撮影に協力いただいた岡山県民の皆さんには本当に感謝しかないです。撮影中も差し入れなどを頂き、当時何回も泣いた記憶があります。
そして、豪雨災害から約1ヶ月後の8月9日に動画を公開することができました。知事も出演頂き、岡山のアナウンサーの方にもナレーションを頂き、岡山のみなさん総勢200人が踊る被災地応援動画「カモンベイビーオカヤマ」を公開しました。
公開後、動画は30万回以上再生され、キー局全局、ネットメディアの皆さんにもご紹介頂き、100媒体以上のメディア掲載。王様のブランチや北海道テレビでも丁寧に紹介頂くなど、日本のメディアほとんどに掲載いただきました。
また、SNSでも話題になり、楽曲を使わせていただいたDA PUMPメンバーやファンの皆さんも拡散にご協力をいただき、紹介されない日はないほどの大きな反響が生まれ、日本全国から岡山に関心や思いが寄せられるきっかけになりました。
この復興動画は、「The Japan Times」でも記事化され、グローバルでも広がりをみせていました。日本国内に留まらず、海外からも被災地に目が向けられるきっかけになりました。こういった取り組みを受け入れてくれた地域の皆さんには感謝しかありませんでした。
岡山だけじゃなくて、広島・愛媛はやらないの?
この西日本豪雨の取り組みをやっている間も月々キャッシュが綺麗に溶けていきました。このままだと6ヶ月後にはキャッシュアウトが見えている状況でした。
ただ、岡山の黒住くんが僕に言いました。「なんか岡山だけでやって、ほかにも被災してる広島とか愛媛とかの地域でもやらないとか、結局目立ちたいだけっていう人の声もあってさ。」
それを聞いたとき、正直言うと「ふざけんな。」と思ったのが本音です。好き勝手言いやがって。と、その人には思ったりしてました。
だけど、その日の夜に「もうここまで来たらぶっこむかあ」と決めました。経営理念が「瀬戸内から世の中を面白く照らす」なんだったら、理念通りの行動をした方がいいよな。ダサいことはしたくない。やってやるぞ。と思って、愛媛県と広島県でも動画を制作しました。
僕もこの仕事をやり始めてから気づいたのですが、動画制作って大変なんです。現地調整、関係者連絡、企画構成、撮影、音源収録、編曲、動画編集、配信、配信後のメディアリレーションなどなど。
最終的に各県100〜300人以上のみなさんにご協力をいただいたのですが、おかげさまで愛媛県、広島県も公開でき、なんとかやり遂げることができました。
嬉しかったのが、広島県の市内で撮影中に「カモンベイビーオカヤマの動画を観ましたよ!広島でもやってるなら協力しますよ」と言って、撮影に協力をしてくれた岡山県民の方々でした。
そして、最終的にはDA PUMPが真備中学校の卒業式に訪れてくれたこと、この動画がそのきっかけになれたこと、非常に嬉しく思いました。そして黒住くんとは戦友になりました(笑)
キャッシュアウトは目前でした。
ただ、会社の経営に目を向けると、1年目の資本金は500万円。メディア事業の立ち上げ期に150万ほど使ったので、残りの資本金は350万円。復興動画プロジェクト中は、他の案件がほとんど出来なかったので人件費などで消えていきました。1年目の売上は100万円でした。
全ての動画配信が終わったあと12月に銀行口座を確認すると残っていたのは30万円。急いで日本政策金融公庫に連絡をして、初めての融資を経験しました。その際に担当者の方が「大崎さんがここまで頑張ってるのに、応援しないわけにはいかないですからね」と言って、創業1年目に借りれる金額以上の融資をいただくことができました。
プロジェクトが終わったあと、「最初に地域への貢献は大切だしね」と言葉をかけてくださった社外取締役の真鍋さんには感謝しかありませんでした。
3年後に届いた真備町出身の大学生からの連絡。
西日本豪雨から3年後、母校の香川大学で防災関係のトークイベントにゲストとして参加しました。そのとき参加していた真備町生まれの大学生(当時高校生)からDMをもらいました。
このメッセージをもらったとき涙が出るほど嬉しかったです。
それと、予想はしていなかったのですが、この取り組みの後、結果として企業や自治体様から多くのお取引を頂くことにつながりました。この頃から、「先義後利」という考え方が、弊社の大切な価値観に加わりました。
3ヶ月ほど精神的に死んでいました。
ただ、岡山・愛媛・広島の3県でプロジェクトを終えた創業1年目。精神的にも肉体的にも瀕死の状態でした。2019年に入ってからの3ヶ月、あまり記憶がありません。
また、「復興」をある種「エンタメにする」という行為自体が非常に線引きが難しく、本当に被災者の方々のためになるのだろうか。動画公開後もずっと葛藤がありました。ある種の鬱に近い状態でした。
そして当時はインターンの子たちを中心にメディアチームを作っていたのですが、プロジェクト中は完全にほったらかしだったので、チームからも離れていきました。
チーム崩壊。そこからの再出発でした。続きます。
創業前のストーリーはこちら👇
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