#1【世迷言】配達物が届かない家
こういう時のストレスって発散の仕方が難しい
「○月○日○時に届きます」って言われていたのが、その時間になっても届かない、確認すると「配達完了しました」ってメッセージになっている。そう。このパターン。良くあるやつ。
もちろん人がやっていることなのだから絶対は無い。ヒューマンエラーに対しては出来るだけ寛容でありたいとも思っている。それでも僕はストレスを感じてしまう。感じる自分は人としてまだまだ未熟なのかもしれない。でもみんな感じるんじゃないのと思う自分も居る。それも含めて未熟なのだろう。
負の感情をぶちまけるか否かは置いといたとして、責任の所在が明確なパターンって、結構、モヤモヤしなかったりする。けれどこういう、感情の行き場がどこにもないって時は、心を切り替えるのが難しい。過去経験していても慣れないものだ。やっぱり、全てひっくるめて、僕が未熟なんだろう。
栗山英樹監督の「俺が悪い」を思い出しながら「僕が未熟」と書く男。
「○番館」ってところがややこしいのかなぁ?
原因は何となく分かっている。僕が今住んでいる住所が「○番館」だからだと思う。配達する人にとってややこしいんじゃないかな。どれも同じ造りだから。たぶん。見分けがつかないんだろう。
おそらく、配達する側でも、あそこはややこしいから気を付けろよ、だなんて、内々でやり取りされている気もするんだけど。気を付けていてもミスする時はあるしね。そこに対しては寛容でありたい。ていうか、僕自身、ヒューマンエラー多いマンだから。自ずと寛容になれるところはある。
そう考えれば僕はラッキーだ。なぜなら凡人だから。天才型の人は他人の気持ちに共感出来ないなんて言われたりする。なぜなら自分は経験していないから。多くの人がブチ当たる壁を、ヒョイヒョイっと飛び越えて来た人は、その苦労が分からないのも無理はない。
その点、僕は、多くの人がヒョイヒョイっと飛び越えられる、小さな小さな石ころにも「あいたっ!」とつまずいてこけてしまう、そんな人間だから。そういう意味で言えば、僕は、共感能力は、多少なりとも自信がある。
なんだかんだ手元に届くことが多いのが救いである
荷物が所定の時間に届かなかったとなると、その後の予定や計画に狂いが生じるものだが、なんだかんだと言いながら、いつかは自分の手元に届くものである。どういうルートを辿って届くのかは未だに分からないが。
日にち遅れでポストに荷物が入っている喜びは、日にち通りでポストに荷物が入っている喜びを上回る。この気持ちはなにか。それは、人のモラルが加わっているからだろうと思う。
荷物が予定通り届かなかった理由を別の○番館に間違えて届いてしまったと仮定した場合、その荷物の処遇は、間違えて配達された人に委ねられる。
「なんか見に覚えのないものが届いたよ。ラッキー。もらっとこう」
そんな悪意が働いてもおかしくないはず。
「なんか身に覚えのないものが届いたよ。配達を頼んだ人は困ってるだろうなあ。ポストに入れ直しておこう」
そんな善意が働いた結果、日にちはズレたものの、無事、我が家に荷物が届いているのではないだろうか。
ゆえに、僕は、喜びを感じるのだ。「まだまだ日本も捨てたもんじゃないな」と。
ニュースに目を通すと、暗く悲しい報道が目立つこの世の中。しかし、スポットライトは当たっていなくとも、心温まるニュースも、世の中には散らばっているはずだ。僕はそう信じたい。