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努力出来ることは才能だし、耐えられることも才能
努力するのが当たり前みたいな風潮が嫌いなたつやです。
今回は、社会で求められる”当たり前”の中で、努力や忍耐についての話をしようと思います。
社会に出ると、仕事を覚えるのに頑張らないといけないし、色んな理不尽に耐えないといけないですよね。
僕たちはそれが”当たり前”だと教わってきたし、そういうものだと刷り込まれてきたわけです。
でもちょっと待ってください!
それ、全然当たり前じゃないです。
誰もが頑張れるわけじゃないし、頑張れることと頑張れないことがあるのは当然ですよね。
だから、なんでもかんでも「頑張って当たり前」は普通に考えておかしいんですよ。
頑張れること、努力できることって、それだけで才能だと僕は思うんです。
努力至上主義みたいな考え方は嫌いです。
ただ、努力することはそれだけで才能で、全然普通のことじゃないって考えると、努力は素晴らしいって気持ちも多少は分かるかなと思ってみたり。
頑張れなくて当たり前。
同じように、耐えることも普通だと思われがちですよね。
これくらいの理不尽は耐えて当たり前とか、これくらい我慢できないとやっていけないとか、ちょっと意味が分からないです。
確かに、なにも耐えず、我慢せずに毎日過ごすのは無理かもしれません。
親しい人に対してでも、なにかしら我慢したり耐えたりすることはありますからね。
それはそれで事実としてあるとして、そこで耐える判断をしているのは自分なんです。
親しい人が相手なら、嫌われたくないとか、もっと仲良くなりたいとか、いろんな気持ちがあって、そのうえで目先の”耐えるべきこと”を判断しているわけです。
つまりは、当たり前ではないんです。
自分にとってその方が良いと判断したから耐えてるだけなんですよね。
日常的に耐えることで、その線引きや気持ちの裏側が曖昧になりがちなので、「耐える=当たり前」みたいな風潮になってしまうんだと思うんです。
つまり言いたいことは、今当たり前のように耐えてることは、自分はなんで耐えてるんだろうってことを考え直してみてはどうでしょう?ということ。
自分が何を大事にしていて、なんのために耐えているのか見直すと、思った以上に気付きがあると思います。
今まで当たり前に耐えていたことを、実は耐えなくてもいいと判断できるかもしれません。
自分で自分に「当たり前」の自己暗示をかけるのももったいないので、自分が楽になるように考え方を改めていきたいですね。
ということで、本日のまとめです。
頑張ることも、耐えることも当たり前ではありません。
頑張れた時、耐えれた時、それは『才能』であると自分に言い聞かせてみてください。
そのうえで、自分が本当に頑張るべきこと、耐えるべきことをしっかり見極めて、必要以上に自分を苦しめないように調整していく。
その判断をするためにも、”当たり前”の自己暗示を外して、自分がやってること、感じていることをシンプルに捉えていきたいですね。
今回は、努力や忍耐についての自己暗示を外してもらうために、”当たり前”について言及してみました。
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