「石見高橋氏の歴史」(歴史って沼だな…)
皆さん、おはようございます。
ryukoです。
なんとか叔母の葬儀も終わり
昨日やっとひと段落です…。
私の母方の先祖が「高橋氏」に
由来すると知って…
調べてみる気になっていたのですが
歴史の文章は「文字」になってしまい
「文章」として頭に入ってこないです。(笑)
なので、見ても分からないなら
文字に起こしてみようかと思いました。
あまり有名ではないから皆さんが
興味が持てるかはわかりません…
(;´∀`)
高橋氏は国人領主の一つで
島根・広島の県境を中心に領土を持ち
最終的には尼子氏側に付いて
毛利氏に滅ぼされてしまいました。
…石見高橋氏…
西暦1350年
高橋氏は備中より阿須那へ入る
西暦1361年
高橋氏は出羽城(二ツ山城)を
攻め落とす。
年末詳
高橋大九郎が隠居
命千代が継承する
こんな感じで高橋氏は阿須那で
権力を強めていった。
この間、毛利内部の争いを調停している。
西暦1512年
毛利元就の兄・興元と
高橋元光の娘が婚姻
同年、毛利氏は国人領主たちと
結束を強めるための同盟を組む
(毛利・高橋・吉川・天野
平賀・小早川・野間・阿曽沼)
西暦1515年
高橋元光、本亀城(現:君田)で討ち死
元光の兄弟(?)の高橋弘厚の子である
高橋興光が家督を相続
一方
毛利興元は壬生元泰の起請文をうけ
高橋氏と武田氏との関係を断った
西暦1515~1516年
毛利興元は高橋氏の
「松尾城」を攻撃し毛利氏との関係が悪化
毛利興元陣中にて病死(飲酒が原因か?)
西暦1530年
「松尾城」を毛利元就に攻撃され
高橋弘厚自害
阿須那の「藤掛城」も攻撃され
家督を継いだ高橋興光も自害
高橋総領家滅亡に至った
これにより毛利氏は高橋氏の領土を
大内義隆の命により譲り受ける
西暦1540年
高橋氏の一族であった本城常光
(高橋総領家との関係は不明)
郡山合戦にて尼子側に従軍
西暦1543年
富田城攻防戦にて戦功をあげた
高橋一族は尼子晴久の命にて
阿須那・都賀西の返還を受ける
西暦1560年
高橋一族は吉川元春との水面下調略により
毛利方へ投降する
しかし元就の命により吉川氏により
本城常光は出雲丸倉城山麓の
幡屋にて一族と共に謀殺される
西暦1562年
高橋一族の生田就光が石見銀山代官になる
毛利元就の直属の家臣団の一人となった
…(;^ω^)
書いてもやっぱりよくわからんや…。
私にわかることは…
1. 高橋一族はお家存続のために
尼子氏に付いたり
毛利氏(大内氏)に付いている
2. 土地柄的にも尼子氏の味方でいることが
多かった
3. 毛利氏が強くなったため劣勢になった
4. 総領家のみでなく血縁一族で存続を図った
こんなことだろうか…。
母の実家は毛利の家臣だった。
高橋一族を見張る役目で阿須那に来たという。
どこの時代で関わっているのか
ますます不明になった。
そんな最中の叔母の死で
お寺のご住職と接点が持てたため
今度ゆっくり話をする時間を
作ってもらう約束が出来た。
また何か…わかるかもしれない。
歴史って沼のように感じる…。
(。-`ω-)
私には難しい。
余談だが…
毛利元就の長男・隆元が死去した地が
私の実家近くだったことには驚いた。
死因は病死なのか謀殺なのか不明だが
今度、訪れてみよう。
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