【全てを疑い、落ち着いて受け容れる。それは達観か?ならば信じるということは何か?】
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「なにかがおかしい」
と、思い始めたのは、そして気づき始めたのはいつからだったかな?と、色々と探ってみると、これはなかなか難しい。
「なにかがおかしい」
何に対して?というとそれは社会だったり世界の「主流」的なものだったり、それの報じられ方だったり、その中での自分の身の回りの現象だったり、自分だったり。
で、明確に「おかしい!!!!」と確信したのは私の場合はコロナ騒ぎではなく、そのコロナ騒ぎの途中にあった、「トランプvsバイデン」のアメリカ大統領選挙だったのです。
あれは。。本当におかしかった。無茶苦茶おかしかった。
バランスとか均衡とか客観性みたいなものを担保することでその説得力を保持していると標榜し、またそのように理解されていると思われる、
「科学」または「科学的あり方」
というもの。そう、極端に文学的表現に直すなら「正義」
これらは全て恣意的なもの。
つまり。。。
「誰かの都合に良いように、誰かが勝手に作ったもの」
であることが分かった。あの大統領選挙において私は、そう分かった。確信しました。
なので、データ、根拠、エビデンス、客観性、もう、数え切れないくらいに表現の形のあるそれらを「経典」とする「科学」という絶対宗教によって運営されている世界のすべてを。
「疑う」ようになりました。
そう、「疑う」というとなんだかすごくネガティブな感じで、なんかこう。。
「世の中何から何まで信じられない!!!ギャー!!!!」
みたいに錯乱、悲観している印象を与えそうですがそうではなく。
「よくよく考えたらそんなもんだよね。にんげんだものね」みたいな、落ち着きの結果としての「全て疑う」「盲信しない」
なのです。エラソーな表現を許して頂くなら、「達観」が近いでしょうか?故に「騙された!!」的な怒りや、「どうすりゃいいの!?」的な慌てもない。
「そんなもんだよねー」で済む。でも、疑う、信じない。なんかこう、ある意味で冷静を通り越して冷血になってしまった自分も感じるのです。
そう、例の「トランプvsバイデン」をきっかけにそんなふうになったので、その「トランプvsバイデン」において私は今でもトランプさん贔屓ですが、かと言ってトランプさんのすべてを信じているかといえばNOで、
「だってにんげんだものね」
バイデンさんが大統領になって、予想通り戦争が起きた、そしてその場所はやはりウクライナ。あの地域の歴史的経緯とバイデン一族の関わりを見たら予想通り過ぎて「世界の驚き」に私はついていけない?なんでそんなに驚いているのか?あたりまえではないか?
それに対しても、
「だってにんげんだものね」
そして、コロナ騒ぎに立ち返るとまあ、そりゃ、「だってにんげんだものね」となる。
今回のコロナワクチンが今後どのような扱い方をされるかは分かりませんが、まあ、薬害として扱われたとしても50年後から省みたら多分、サリドマイドみたいな数ある薬害の1つとして扱われるくらいの話でありましょう。
私は一度もワクチンを打たず、まあ、それはそれで良かったと思いますが、私はそれ以前に20年もタバコとお酒を身体に入れ、35年以上、砂糖の過剰摂取を続けていたのです。250年生きる目標を立て、その予定ではありますが、反面、いかんせん人生の大部分で毒を身体に入れすぎたので現時点では70歳前後でこの身体は力尽きるとも予想しています。
過去は変えられないのです。
「だってにんげんだものね」
しかし現在の自分はいかようにもできるゆえに、未来はいかようにも描ける。
さて、コロナ騒ぎはなぜ騒ぎになったか?これは情報というものの性質の変化だと思います。すなわち発信の自由化が進み広がった結果ではないでしょうかね。
多分、歴史を振り返れば同じような事は何度も繰り返され、私達の平均寿命がその結果として提出されている。
今回は発信の自由化の波に乗ることでそれが可視化されただけに過ぎないのではあるまいか?
なんとなく操り人形にされている感はあり、腹立たしくもあるが、「ならば操ってるファッキン野郎は誰だ!」と探してみたらそのファッキン野郎もまた操り人形にしか見えず、その大本をたどっていくと、
「おびえ」
みたいなものを感じるのですね。結局、それかよ!となる。ならばなぜおびえるか?それは信じられないから。でしょうかね。突き詰めれば。そして信じる事を求める。
あれ?これは宗教になるのでは。。
「誰かの都合に良いように、誰かが勝手に作ったもの」
その最たるものじゃなかったっけ?
そう、歴史を辿ると宗教というやつもまた、誰かの欲と交わったとき、おびただしい「信じられない」と「おびえ」を生み出してしまう。
ぐるぐるぐるぐる同じところを回る。
「だってにんげんだものね」
冷静と情熱
冷血と熱血
冷淡と熱狂
陰と陽
。。。
さて、わけが分からなくなりましたね。しかし、このわけがわからないと感じたときほど、学びに対する意欲が刺激されるタイミングはないのです。
私は生まれてこの方、現在ほど学びに対して飢えている時代はありませんでした。
多分、人生で今一番、健康なのでしょうね。だから意欲を持つことができる。色々なことがわかるようになればなるほど、色々なことがわからなくなり、希望を見出せば見出すほどに、絶望を知る。
現在の社会においては、なんかいつの間にかコオロギを食べることがまるで「主流」になりそうなノリで、ゆくゆくはゴキブリも?みたいな話になっていますが。
これは単に社会のうねりの中で人の知性が低下しているだけのこと。
「現在の社会においては、なんかいつの間にかコオロギを食べることがまるで『主流』になりそうなノリで、ゆくゆくはゴキブリも?みたいな話になっていますが」
ちなみにこれのどの部分に知性の低下を感じるかと申しますと。
「コオロギやゴキブリを食べる」
の部分ではありません。そこじゃないんです。
「いつのまにか」の部分なんですね。
この「いつのまにか」と言うやつに私は自分を含めた人間集団の知性の低下を感じるのです。
「いつのまにか」だらけなんですね。
ワクチンってやつも、もともと年に何回も打つようなシロモノではなかったでしょうに。「いつのまにか」、年に3回も4回も打つようなシロモノになった。
ワクチンそのものもそれまでは開発に5年はかけてたものを、今回は半年くらいで作って、メーカーははっきりと「治験段階」と言っているが、少なくともこの日本では、そんな怪しげなモノをまるで、「社会に生きる人としての常識として打ちましょう!」みたいなノリで、同調圧力として成立してしまった。人口の大部分が複数回打つ。
「いつのまにか」そんなことになった。
私から見たら、怪しげな流行り物を、学校の先生が校則として押し付けているような、そんなおかしさなんですね今回のワクチン。
私が子供の頃にタマゴッチというのが流行っていましたが。。
それをたとえとして使ってみるなら。
担任の先生が「タマゴッチをしないのは校則違反です!」「はい!小松君!君!タマゴッチしていないわね!校則違反です!ご両親にかってもらいなさい!」
私には現在のコロナワクチンを取り巻く世の流れがそう見えるんです。そういう世界に見えるんです。
本当に。
だから、不思議。
そして、「いつのまにか」そうなった。
そう、コオロギやゴキブリやワクチンそのものではなく「いつのまにか」というやつですね。私がおかしいと感じるのは。
そこにかえりみる脳の働きの極端な低下。を、感じるのです。
で、自分なりに必死に答えを探しているのですが、最近、その道筋が立ったので猛烈に学びに対する欲が爆発しているのです。
そう、戦後の激動の時代にやはり「おかしい」と感じて色々と考えた人達がいたのですね。
その人達の事績を追いまくる事が今の私の学びのとっかかりとなっています。
その代表的存在が
岡潔と小林秀雄
現在においてはもはや道徳の領域にまで侵食している「科学」特に自然科学ですが、彼らに言わせたらともすれば害毒ですらあると。
で、よくよく自分でも人類の歴史的というものをかえりみると、科学なんてものはつい最近までなかったわけで。ならば、それまでの人類はその歴史の大部分をどうなりたたせて来たのか?
と考えたときに出てきたキーワードが
直観
なんですね。
さて、今日はここまで。