「厚徳載物」 よく整えられた身体感覚がなければ、知識は知恵にすることができない
人はパンのみによって生きるにあらず、意味によって生きるなり
人は酸素と同じくらい意味を求めている。
意味は物語が生み出す。
物語は文化として機能する。
文化とは知覚のパターン(型)のことです。
知覚のパターンとは、例えば日本人なら梅干しを見てつばが出るけれど、オランダ人は出ない、といったもので、各文化特有の共有された知覚の傾向のこと。
物語はそういった知覚のパターンとして機能します。
僕は、映画の研究をしている時に、このことに気づきました。
例えば、「電気代は安い方がいい」という同じ意味を求めても、再生可能エネルギー系の人たちと原発系の人たちでは「物語=文化」が異なる。
自分の物語と異なった物語を生きる人たちを極端に排斥しようとする感覚は、原始時代に獲得した本能なので、SNSのような場ができると罵り合いの様相を呈するのは納得がいく現象です。
この場合、論理的思考は感情を補完するようにしか働きません。
論理が直感に勝つことは滅多にない
直感の9割は正しい答えを導くが、残りの1割は系統的なエラーを起こすと言われています。
僕が強度の鬱に苦しんでいた時もそうでした。
直感のエラーを修正するのは知識だけ入れても無理なのです。
直感の源は身体感覚なので、それを修正するための技術を習得するしか道はない。
仏教の例が分かりやすいです。
仏教の修行は、三つの段階に分かれているという
1、 作務
2、 勤行
3、 学問
作務は、掃除、洗濯、炊事、庭仕事といった日常生活全般のこと。これが基礎であり、これを徹底的に続け、身体感覚を深めていかいないと仏道を進むことなどできないということらしい。
例えば、箒や雑巾、はたきといった道具の使い方には型があり、その型に従って掃除をすると身体感覚が活性化する。作務は身体感覚を活性化させるために存在します。
そして、勤行。
お経をあげたり、座禅を組んだりすること。お坊さんの一般的イメージはここからきている。勤行は、作務で活性化させた身体感覚を整える役割を持っています。
最後は学問。
作務で身体感覚を活性化させて、勤行でそれを整えてきた人間だけが、学問により、知識を知恵に変えることが出来る。
知識を知恵に変える力を学力と僕は呼びたいが、そのためには活性化し、よく整えられた身体感覚が前提となるわけです。
直感を活性させ、整えるのは学問じゃない。
まずは、身体感覚を活性化させ、それを整えることだ。
僕はそのことを、事あるごとにずーっと言ってきました。
「地域活性は人育て」とよく言われるが、人の何を育てればいいのかについて、「原理と技」について語り、実践できる人は、この国に多くはいないし、大事にされてもいない
変わらなきゃといいながら、なかなか変われないのは、自分の古い物語から脱するのが困難だから。
物語の変容には恐怖がつきまとうものです。
だからこそ、活性化しよく整えられた身体感覚=胆力が必要となるのです。稽古なしで知識の習得を続けても胆力を育てることは出来ません。
稽古をコツコツ積んでいくしかない。
もし、地域や国を生き延びさせたいのであれば、子供たちの身体感覚を活性化させ、整えることが基本中の基本になるのではないでしょうか。
苦境から逃れ出たければ、身体感覚を活性化し、整えるしかないのです。
基本を身につけること。
それは、いつから始めても遅いということはありません。そして、死ぬまでやり続けられることだと思います。
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