茶色の小瓶
親元を離れて上京して一人暮らしをすることになった時、最後に駅まで車で送ってくれた父が別れ際に小さな茶色の小瓶を渡してくれた。
「それはな、毒薬や」と父は言った。「推理小説とかに出てくるやろ。苦しまずに確実に死ぬことが出来る毒薬や。もしも本当につらいことがあってどうしようもなくなった時はそれを飲むといい」このクソ親父は一体何を言っているんだ?俺は呆気に取られつつも一応小瓶を受け取って鞄に入れた。小瓶は鞄の奥にしまったまますっかり忘れてそのままになっていた。
ふと小瓶のことを思い出して鞄から取り出したのは、あれから20年以上経ってからだった。女にフラれ、仕事で疲弊し、ちょっと死にたくなったからだ。色褪せた小瓶のラベルを見ると、使用期限は今年の年末までになっている。あの時はろくに見もしなかったが、小瓶の中には半分ほど液体が入っていた。蛍光灯に透かしてみると、液体がゆっくりと揺らいで見えた。これを飲めば死ねるのか。死んだら楽になるのか。部屋の真ん中のローテーブルの上に小瓶をちょんと置いた。どんなにつらいことがあってもこれさえ飲めばいつでも死ぬことが出来る。その事実は俺を安心させてくれた……。
ここから未来の可能性をいくつか考えてみよう。
①テーブルに置かれた小瓶により、俺は精神の安定を手に入れる。死にたくなるたびに小瓶を手に取って眺める。蓋を開けずにそのままテーブルに戻す時にコツンと鳴る音は、命が繋がった音のように思えた。そうこうしているうちに年末が過ぎ、毒薬の消費期限が過ぎ、俺は死なぬままに年明けを迎えた。除夜の鐘を聞きながら小瓶の封を切って消費期限の過ぎた毒薬をシンクに流す。俺は新しい自分に生まれ変わるのだ。空っぽになった小瓶は玄関に飾った。
②仕事でボロボロになって帰ってきた夜。小瓶を眺めながらストロングゼロを2缶も空けて酔った俺は、勢いで小瓶の中味を飲み干してしまう。ほんのり甘い液体が舌の上を通って喉に落ちていくのを感じながら、やっとこれで死ねると安堵した。しかし俺は一向に死ねなかった。元気に起きた翌朝、親父に電話して毒薬のことを聞く。親父はすっとぼけて、「なんだお前そんなこと信じてたのか。嘘に決まっとるやろ」と言って笑った。ずっと信じていた自分が馬鹿らしくなって俺も笑った。
③小瓶の中味を一気に飲み干した。酒に酔った勢いでもなく、衝動的な希死念慮でもなく、至って冷静に死を選択した。舌が、続いて喉が焼けるように熱くなる。苦しまずに死ねるんじゃなかったのかよ!と親父への恨み節を叫ぼうとしたが声は出なかった。しかしその熱さも一瞬のことで、ふわっと身体が軽くなった。ゆっくりと視界が霞んでいく。足元がおぼつかなくなってベッドに尻餅をついて倒れた。温泉に浸かった後のように、ふんわりと眠くなってきた。きっとこのまま俺は死ぬのだろう。これでようやく全ての苦しみから解放される。俺はいつぶりか分からないくらい久しぶりに、安らかな気持ちで目を閉じた。
これは創作で、これはひとつも真実のない嘘の話で、実際に俺の家に毒薬の入った茶色の小瓶は存在しない。俺は元気に生きている。しかしこういう形のハッピーエンドもあるのではないかと思ったことは真実だ。そう、ハッピーエンド。死は時に救済で、それでも生きることは希望である。空想の茶色の小瓶をローテーブルに置く。コツンと乾いた音が聞こえた気がした。