見出し画像

SNSの「罪」

もう2月も上旬が終わろうとしている。いつも2月は足早に通り過ぎていくものだが、今年は一段と早い気がしている。

純真舞台さんに朗読の脚本を書き下ろしてから、次の仕事がはっきり決まっているわけではないが、もしかすると、動画用のシナリオを書くことになるかも知れない。それも、かなり短いものを。


こうしてnoteにブログのようなものを書いているが、昔に比べると、明らかに頻度が下がった。これは、年齢のせいもあるが、それだけではない。下手なことを書くと、SNSで叩かれる。それが怖いというか、嫌なのだ。かつては、政治的なことや社会問題に関しても、思うところをズバズバ書いてきた。僕の主張に反対する人はいても、わざわざコメントをするような人は殆どいなかったし、逆に僕の主張を支持する人の声も聞こえてこなかった。ある意味、非常に静謐な環境で、自由に文章が書けた。

しかし、SNS全盛の今は違う。特に僕は、「ネトウヨ」(古い言い方だが)と言われる、SNSの多数派を占める人達とは、主張が180度異なる。もし今僕が、例えば石破政権の批判や、国民民主党の「ポピュリスト・玉木」代表の立ち位置の分析などをネットに書くと、おそらくかなりの批判が来るだろう。真っ当な批判ならまだしも、誹謗中傷にカテゴライズされるような刺々しい言葉が、礫のように飛んでくるに違いない。そう考えるだけでも憂鬱になって、書く気が失せる。


僕が学生時代から社会人になるまで、ずっと視聴し続けていたテレビ番組に、テレ朝の「ニュースステーション」があった。ちょうど40年前の秋からスタートしたその番組は、日本の「ニュースショー」のパイオニア的なものだった。まるでバラエティのようにニュースを取り上げ、コンセプトは「中学生にも分かるニュース」だった。面白がりながらニュースの裏側を知ることができる等、画期的な番組だったが、何といってもこの番組の特徴は、メインキャスター(本人はこの言い方を避けて「司会者」と言っていたが)の久米宏氏の進行である。

ニュースを読んだ後、久米氏が必ず印象的で的確なコメントを述べる。そして、次のニュースに行く。そのテンポ感も心地よかったが、大切なことは、久米氏のコメントが、どちらかの立場に偏ることを恐れず、昨今のコメンテーターと違って、歯切れ良く、本質を突くものだったことだ。かつても、「偏向している」という政治家からの批判や露骨な干渉はあった。また、一般の視聴者でも、テレビ局に「苦情の電話」という形でコメントや問題の取り上げ方に対しての批判を伝えることはあった。それでも久米氏は、それに屈することなく(自分が間違っていれば謝罪していた)、思うところ、伝えるべきことを伝え続けた。それが可能だったのは、この時期にはSNSはなく、あったのは普通のサイトとブログくらいだったからである。つまり、久米氏や番組への批判は、世間に対して可視化されていなかった。


しかし、SNS全盛期の今は違う。テレビ局のサイトやSNSアカウントにあっという間に批判のコメントが殺到し、「炎上」状態となる。この批判が目に見えているかいないかの違いはとても大きい。たとえ1人の人間が100回、1000回と同じ批判を投稿しても、まるで100人、1000人から批判を受けているような錯覚に陥る。そして、その匿名性から、言葉は過激になり、悪口雑言の礫となって容赦なく対象者に降り注ぐ。よほどのタフガイでなければ、これをやり過ごすことはできない。実際、SNSの誹謗中傷が原因で、何人、何十人、いや、何百人、もしかするともっとたくさんの人間が自ら命を絶っている。そのことに対して、批判を書き込んだ人間は、何ら責任を取らない(時には、罪に問われることもあるようだが)。「表現の自由」を隠れ蓑に、フェイクでも構わず投稿する。

このような状況で、仮にかつての「ニュースステーション」のようなニュース番組を放送したら、一体どうなるだろうか。久米氏本人のこともそうだが、おそらくテレ朝がもたない。連日の激しい抗議の書き込み、電話、メール…。テレビ局のトップは、内容の見直しや、久米氏の交替を検討し、実行するだろう。そして、ニュース(番組)は、毒にも薬にもならない、味気ないものになる。これが、現在のマスメディアの状況である。


テレビCMがつまらなくなったのも、おそらく同じ理由だ。ちょっとでも尖った表現、辛口の表現をすると、すぐに「○○ハラスメント」「コンプラがなってない」「不愉快なので、この商品は買わない」と批判が来る。商品やサービスを売る側にとって、これ程怖いことはない。結果的に無難な表現に落ち着き、何も(商品名でさえ)印象に残らないCMが量産されることになった。

かつて、故天野祐吉氏がCM批評を新聞に連載していた頃は、本当にそれ自体が「文化」と思わせるほど、多様な表現が溢れていた。奇をてらっているようで、じつはその商品の本質を表していたり、世の中を風刺していたりするCMが数多く放送され、まさに目が離せなかった。ネット(特にSNS)の登場によって、「批評」は一般人のものになり、よく言われる世の中の寛容度の低下によって、表現の幅はどんどん狭められていったのだ。


思いがけず長い文章になってしまったが、先頃の出直し兵庫県知事選挙やその前の都知事選等で、SNSの功罪が論じられた。僕自身は、「功」より「罪」の方が大きいと考えている。しかし、僕のこの文章も、SNSに載せないと広まらない(今のところ、言うほど広がらないのが実態だが)。そう考えると悩ましいが、もし僕がもっと著明になったら、勇気を振り絞り、批判を受けることを覚悟で、賛否が分かれる問題や、政治的な課題について発信していくかも知れない。それが自分の責任だと感じられれば、である。幸か不幸か、今のところはそこまではまったくいっていない。とはいえこの文章自体、SNSに批判的なので、反論が来るかも知れない。その場合、ある程度影響力があったということで喜ぶべきか、容赦ない言葉の礫が飛んできたことを悲しむべきか、これもまた悩ましいことではある。

いいなと思ったら応援しよう!