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人は引きこもる、現われるために。

    巨大な津波は起きたのではない、人々の前に現れたのだ。津波は想定の外から、現れた。認識の枠組み(確率)の外から現われるモノへの感覚を失った現代人は、巨大な津波の出現を予感することができなかった。

大津波を知らせに人々の前に現れたジュゴン

 沖縄の島々にはこんな言い伝えがある。ザン(ジュゴン)が浜辺に現われ島人にまもなく大津波が来ることを知らせた。ザンの言う事を信じる者は少なかったが、言われたとおり高台に逃げた者達は助かったというものだ。ザンは突然現われたもの、そして異質なもの、異界から来たよく分からないものである。
 異界の使者と対話ができた人達が、生き延びた。

現れる場を、「在る」が奪う

 いま沖縄の辺野古では、ザンの棲家の海を壊し基地を造る計画が進められている。それは、ザンが現れる場を無くすことであり、異界との対話する場が失われることでもある。
 基地は、そもそも異界を敵視する施設だ。集団的自衛権といった枠組みを作り、外部を異界(不信に満ちた世界)と見做し、異界から現れるものは即座に分類する。対話不能なものは、敵と見做される。敵はいつ現れるか分からない。強力な基地が在ることを見せつけることで、現れるものへの抑止力とする。
 基地建設。「在る」によって、ザンが現れる場が奪われようとしている。

現れることを、居るか居ないかに置き換えることはできない。

 基地建設予定地に、ザンは居るのか居ないのかと論争になっている。
 しかし、ザンは「いるか」、「いないか」で判断されるものではない。

 ザンは、人々にとって現れるものとしてあったのだから。しかし、基地を造る側は、「いるか」「いないか(在るか)」の論争へと人々を巻き込もうとしている。
 実際に、辺野古の海ではジュゴン(ザン)の生息が確認されているが、造る側は「以前はいたが今はいない」「たまたま偶然いたに過ぎない」「生息地と言えるかは不明」などと反論する。「いるか」「いないか」を確率で判断するというのか。
だが、そのような論争に意味は無い。

 島に暮らす人々にとって重要なのは、ザンが現れる場を守ることなのだから。

島人に伝わる現れるものへの敬意

 わたしは、沖縄の森の中にある小さな聖地ウタキを訪ねた時にそれを深く感じた。鬱蒼と茂る亜熱帯の森の奥に分け入ると、突然清々しく保たれた空間が現れた。人工物は一切置かれていない。御神木と思われる大きなクバ(ビロウ椰子)が一本生えている。ぽかんと空いた空間は、現れるものが現れるために清められた場だった。

 沖縄の人々には、現れるものへの感覚が今も息づいていることを、知ることができた。

在るものと、現れるものが対立する世界

 ザンの海での基地建設問題は、今世界中で行われている「在る」と「現れる」の戦いと無縁ではない。9.11同時多発テロ以降、テロとの戦いという言葉が頻繁に使われるようになった。テロとは、人々の日常に突如現れる恐怖だ。今世界中の人々が、現れる恐怖に脅かされている。
 人々にとって、テロリストはまさに異界(恐怖と悲惨に満ちた、見捨てられた世界、この世の地獄)から現れる者であり、憎しみの塊と化した対話不能な者たちだ。国際社会は、自ら恐怖と悲惨の原因を作り、特定の地域住民にそれらの矛盾を全て押し付け、人々を対話不能な異界の住人に変えてしまった。
 多くの国々では、人々が異界から現れるものに怯え、社会を在るもの(監視システム)で社会を埋め尽くし、テロを押さえ込もうと躍起になっている。
 ここまま、分類可能なものの存在しか許さない(現れるものを徹底的に排除する)監視社会へと向かうのだろうか。
 わたしたちは、在るものと現れるものが対立する世界を生きている。

むかし「在る」は「現れる」だった。

 古代の人々にとって、わたしたちが言う「在る」は、「現われる」ということを意味していたという。古代の人たちには、世界はどのように見えていたのだろうか。
 現代人はモノが現われるという感覚をほとんど失い、ただ在るか無いかという判断による惰性的な感覚に浸って生きている。
 現れるものは、ただ在るものでも、ただ無いものでもない。それは、常に潜在する何か(現れるものがある)として、感じられている。古代の人たちは、例えば万葉集の歌に見られるように、現れるものと対話しながら生きていた。
 実は、今を生きるわたしたちも、本当は現れるものとしか出会えないし、現れるものとしか対話できていないのかもしれない。もし、そうだとしたら、世の中は作り物の出会いと見せかけの対話で溢れていることになる。どうだろうか。

現れを感じても上手にやり過ごす生き方を身につける。

 近代化とは、現われるものを悉く在るものか無いものに読み替え、分類整理し合理化する運動だ。しかし、生々流転する世界では、動きや流れを無理やり止めない限り「在る」という状態を持続できない。生きている蝶をピンで止め標本箱に納めるようにして、人もモノも標本化し該当する箱に入れて分類する。
 現代人は、並べられた標本を比べながら、どれにしようかと選択をする生き方に慣れきっている。選択に追われている人には、現れてくる人やものが見えない。現れたものを感じても、立ち止まらずに選択を続けながら前に進んで行く。感じても知らん振りをして、上手にやり過ごしていく生き方を、いつの間にか身に付けてしまった。

現れるものを在るものに置き換えて、忘れた。

 津波も標本化された。津波は在るのか、いつ起きるか(いつ在るか)の確率によって分類整理された。ところが、本物の大津波は突然人々の前に現われた。まさに、想定外だった。
 そして、未曽有の被害を及ぼした。
 わたしたちは、あらためて現われるものへの感覚を失っていたことに気付かされた。
 大津波は、現代人が対話を止めてしまった異界、つまり大自然から突如として現れて来た。目の前の海を対話不能な沈黙の異界に変えてしまったのは、確率に全て委ね異界との対話を忘れてしまった人間だ。
 それでも、異界との対話は再開されなかった。最新のデータに基づき標本化された津波に合わせて、在るもの(防潮堤)による防御が進められている。建設が進む巨大防潮堤(壁)に遮られ、海辺に暮らす人々の視界から海(現れるものがいる異界)が消えていく。
 在るものの建設によって、現れるものとの対話が失われていく。ここでも、現れるものが、在るものに置き換えられていく。

現れるという様式

「現われる」という様式が、日本の古い絵画にある。日本の絵画の多くは、掛け軸や巻物、屏風といった形で、普段は巻かれていたり畳まれていて、飾られる度に鑑賞する人の前に現われる。それは、堅牢な額縁(世界を覗く窓)に縁取られ壁に常時固定されている西洋絵画とは異なる様式の絵画だ。
 絵の描かれ方にも、現れるという様式がある。たとえば、水墨画を思い起こしてみよう。画面の中で霧や靄が流れ動き、その間から現れては消える、刻々と変化する山河の風景が描かれているではないか。山河の風景ばかりではない、京の都を描いた洛中洛外図屏風では、動く雲間から現れるように賑やかな都の光景が描かれている。
 もうひとつ、日本の古い絵画には西洋絵画には無い特徴がある。人物や建物などが作る影が描かれていないことだ。つまり、一瞬を切り取った時間とは異なる永遠の時が描かれている。
 現れるということは、流れ去る時間を超越した持続する(時間)の中でしか起きえない出来事だからだ。

現れ続けるものを求める。

 昔の人々は、「在り続ける」よりも、「現われ続ける」を求めていたのではないだろうか。美も在るものではない。人の前に、出来事として現われるものだ。だから、美を在るものと思い込んでいる人は、美の在り処を探してばかりいて、美を見出すことができない。
 いくら探してもどこに在るか考えても、その人の前には、美は現れて来ない。
在るものを探している限り。
 美の現れに出会うために必要なこと、それは、感じる前から考えないということだ。現れるものを、はじめから考えることなどできない。

「まず思考し、次に表現しようとする画家には神秘と云うものが無い・・・・
私達が誰かを眺めるたびに、誰かが自然の内に現われるたびによみがえる神秘が。」(メルロ=ポンティ)

事業の健全さは現れることで持続する。

わたしにとっては、事業もまた現れる続けるものとしてある。事業は、決して在り続けるものではなく、現われ続けるものでなければならないと思う。
 「この事業は在り続けるもの」と思った瞬間から、その事業は陳腐化形骸化し停滞してしまう。その典型が、公共事業や補助金漬けの民間事業だろう。
 良い事業を進めるためには、「在る」に支えられた安定を求めてはならない。常に外に向けて開き、新鮮な感覚を失わず、人々や社会の中に、現れるものであり続ける事業が、意味や価値を持ち続けることができる。

清々しく現れるために引きこもる。

 日本には古くから籠もる(こもる)という伝統がある。何の為に、人は籠るのだろうか。現われるために籠もるのだと思う。人々はその意味を、四季の変化の中から感受したのではないか。折口信夫は、冬とは生命の源であるタマが殖える(殖ゆ)という動詞に由来すると述べている。 
 多くの生き物達が姿を消して、風景から動きが失われた冬は、土深くに動きが内在しエネルギーが蓄えられる季節である。寒さ中に感じる充実。各地の古い神事では、籠もることが行われてきた。人や神や世界が、清々しく現われ続けるようにと。

在るもので埋め尽くされた社会の息苦しさ。

 人が立場や肩書、地位にこだわるのは、在る(である)という状態の維持と安定を求めてやまないからだ。しかし、立場や肩書等によって固められた組織や社会は動きを失い、息苦しい。古代、動き流動する気が涸れることを「ケガレ」と言ったそうだ。
 身動きができないくらい「在る」で埋められた社会は、活気を失い没落していく。しかし、動きを失った組織や社会に、再び動きを取り戻すのは容易ではない。

 人々が立場や肩書きなどで分類され整理される社会では、新しい思考や感覚を持った人や分類不能な人(変わった人)が現われると、異界の者として排除しようとする傾向がある。未知のもの(現われるもの)に向けて扉を開き、自然に忠実であるべき科学でさえも、権威や学閥といった強固な立場のネットワークに被われ動きを失っている。
 科学者の立場のネットワークは政治と癒着し、その結果科学を形骸化させている。原発事故発生時には、御用科学者は自分の立場を守る言い訳「想定外」を連発する羽目になった。

在るものでしか解決をはかれない政治の限界

 今の政治状況もよく似ている。いま「在る」現実を固定化して、そこで得た地位や立場、権力の上に胡座をかきながら、現実は変えようのないものだと人々に押し付けている。人々に 諦め(納得)させることが、政治家の役割(特権)だと思い込んでいる。
 改革によって現れる社会や世界(潜在性)をベースにビジョンを描き、新しい現実の生産を進めていくこと(可能性の芸術)こそが、政治に本来求められる機能だというのに、まったく理解できていない。既得権益や利権で固められた現実に依存しているから、現実を変えたくないと思うのは当然だろう。無能な政治ほど、現れるものを拒み続ける。

 先述した沖縄の基地問題など、まさにその典型例だ。いま在る現実(国際紛争がある、基地が在る、他国の脅威が在る、米国との関係が在る、パワーバランスが在る等)を固定化して、その負担を沖縄の人々に押し付け、諦めさせて受け入れさせようとしている。堕落した政治の典型だ。
 政府は、ザンが現れる場をそれらの「在る」で埋め尽くそうと躍起だ。次々と既成事実を作り上げ、在るものを積み上げて見せ、壁の力で威嚇し、人々を諦めさせようとしている。

ビジョンとは、何か。

 だから、今の政治家が地域や社会の可能性とか未来へのビジョンなどと言っても、全く説得力がない。モノやコトが現れる場を、在るという現実で押し潰している張本人が示すビジョンが、絵空事に過ぎないのは当然だ。
 ビジョンとは、新しい人やモノや、潜在している(引きこもっている)ものが、清々しく(利権や既得権益に汚されずに)現れるために必要な場をどのよう作るかを、具体的な方法(政策)によって人々に提示することだ。だから、在るもので社会を固め、現れるものを受け入れない者に、ビジョンなど描けるはずがない。
 今の政治家は、在るものの上で胡座をかき続けるために、選択はこれしかありませんと言って、人々の前に現れるものに蓋をしようとしている。現れるものを感じられないように、人々や社会を萎縮させている。在るもので、動きを止めてしまえば、安泰だ。
 子ども達や若者達は、現れを感じても、上手にやり過ごす生き方を、管理教育や受験教育の中で身につけていく。いつの間にか「これは、わたしの個人的な意見や感想なので発言は控えよう」と思うようになっている。だから、人が集まって交流しても、その場に現れるもの(新しいアイデアや気づき、ひらめき)が無い。

 気が涸れているから、情報交換や意見交換しか、つまり、在るものや持っているものの交換しか、できない。シンポジウムなどでパネルディスカッションが行われても、たいていの場合は自己紹介や事例報告で終わり議論は行われない。それは、時間切れだからでは無い。
 人々を萎縮させることで維持される政治が継続することよって、社会は日々息苦しさを増し、人々の生きる力は失われ、社会は衰退へと向かっていく。生きるための政治を、取り戻さなければならない。

「現れる私」の居場所が無い社会

 引きこもりが社会問題として取り上げられるが、わたしは人が引き籠ることは自然なことだと思っている。「在る」(である)で固められ身動きができなくなった社会に、人はほとほと疲れ果てているからだ。引きこもりたいという感覚を持つということは、むしろ正常な反応ではないか。(自分もこれまで度々引きこもってきたと思うし、これからも心身の声に応えるために引きこもることがあると思う)
 人は、在るもので埋め尽くされ身動きできない社会に居ても、「動きたい!」と訴える自分を感じてしまうことがある。感じたことをやり過ごす生き方を教え込まれて来たはずが、感じたことに応えたい、今すぐ動きたい自分をどうしても抑え込めなくなる。
 いじめやストレスといった不条理に満ちた社会では、心身が感じたことに応えようとする自分がいても動きようがない。自分が在るもの(〇〇であるという動かせない立場)の一部になっていたことに、やがて気づく。
 引き裂かれていく自分に耐えきれず、人は引きこもる。
 引きこもり。誰かがそのようにして引きこもると、すぐに「病気」にされてしまう。直さなければならない問題のある人として、分類されてしまう。  
対話不能な異界の住人として、周囲からは見られるようになる。

現れる人を受け入れる社会へ

 引きこもりの長期化高齢化が社会問題になっているが、引きこもる人達を社会に戻れないようにしている原因は、現われるものを受け入れようとしない社会の側にあるのではないか。
 わたしは、人が必要と感じた時に引きこもることができ、再び現われることができる社会こそが、健全で豊かな社会なのだと思う。それは、現われるものを受け入れることができる、真の充実を知る社会である。誰もが、引きこもりたいと感じた時に、引きこもることができる社会こそが、健全な社会といえないだろうか。
 一度引きこもり、そして現れるということは、蝶が、芋虫から蛹になり蝶に成るようなものだと思う。殻の中で固められた自分を一度溶かし、再び流動させ新しい自分に成り、脱皮をして現れて来るということだ。人は、そのようにして生まれ直しを体験することができる。
 生も、また現れである。
 生まれ直したい。これは在るもので固められた自分から、もう一度生まれた時の素のままの自分に成りたい、自分が生きている世界をもっと感じたい、生きる力を取り戻したいという、古代から延々と続く、人々が抱く切実なる思いではないか。

なぜ河童の皿から竜が出て来るのか。

 よく授業中に、生徒が黒板の絵を見てわたしに質問することがある。「なんで、河童の頭の皿から竜が出て来るんですか。」わたしはそう聞かれた時には、こう応えることにしている。
「あー、なんでも出てくるんだよ。」(異界からね)
現われるモノは、いつもよく分からない。すぐには理解できないもの。だから、まずは、感じ取るしかない。秋田のナマハゲや宮古島のパーントゥは、現れる。人々に現われへの感覚を呼び覚ますために、異界からやって来る得体の知れない来訪者だ。人々に身近な存在である河童や竜も、標本化を拒み続け現れて来るモノ達の仲間だ。
 それらは、わたしたちと異界との対話を途絶えさせないために、わたしたちの前に現れることを止めようとはしない。
人も現われる。
現われるという感覚を取り戻すために、人はいつでも引きこもることができる。

                      2011年11月30日
                             飯島 博

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