
無料連載小説|紬 39話 機材
自室でジャガーを抱え、何度も何度もニルヴァーナの曲を弾いた。エレキギターというのはアンプを通さなければか細くしか鳴いてくれない。悲しいほどにジャガーはよく響くけれど、少し寂しい。窓の外は晴れたり曇ったりとやはり冴えない。だけど平日の昼間に奈月に連絡することは躊躇われる。私はただの彼女じゃない。婚約者だからだ。未来の妻として、妻らしい振る舞いをしないと。
そう思っていたら電話がなり、表示された奈月の名前に拍子抜けした。
「紬はエフェクター持ってるか?エフェクター、分かるよな?」
「音色を変える機材ですよね。エフェクターどころかアンプも持ってなくて」
一瞬静寂が訪れた。おそらくタバコの煙を吸い込んだんだろう。
「ちょうどいい。蒼さんのおばちゃんにもらいに行こう。紬には悪いが、あの音が聴きたい」
「いいの?!悪いです」
やっぱり私の日本語は敬語が混じってカタコトだ。
「大丈夫。おばちゃんに会えば納得するよ」
友達のお母さんをおばちゃんと呼ぶって、子供みたいな大人だ。
その日の夜、私は蒼さんの家に行くことになった。ご飯を抜いてくるよう言われた理由は、蒼さんの家の駐車場で納得した。大きな看板には「うどんのドン」の文字が記されている。すごい名前だ。目を奪われた。
奈月は夕日を遮るラウンドのサングラスを外し、私に一度笑いかけた。意味は分かっている。愛情とか恋心ではなく、「うどんのドン」のことだろう。ただ奈月の笑顔に見入っていると、すっと車を降りて店に向かってしまった。私は急いで後を追った。
「こんにちはー。おばちゃーん!」
前髪を短めにした50歳くらいの女性が丼を洗う手を止めた。そして顔いっぱいの笑顔になった。
「奈月くーん!うどん食べて行きなさい!私髪切ったの!パティスミスみたいでしょ?」
ロックスターの名前が出てくる年配の女性。未来の私かもしれない。
「相変わらず男前だね!それに、可愛い奥さん!こんにちは!」
「初めまして、小川紬です!大切なギターを、ありがとうございます!」
タオルで手を丁寧に拭き、お母さんは私の頭に手を載せた。
「奈月君が浮気したら、あのギターで殴っていいからね。あと、話は聞いてるよ。紬ちゃんが、蒼の音を鳴らしてくれるんだね」
今度は両腕が握られた。
「あのギターを抱えて、奈月君や京君とバンドをやりたいって言ってきた男の子、何人もこの店を訪ねてきたんだ。全員二人に血まみれにされたって聞いて、私もスカッとしてたの。でもそんな二人が迎え入れた紬ちゃんなら、また蒼の音が聞こえるのかな」
切実な目をして、両手を振るわせ始めた。
「蒼に、会ってやって」
「お母さん、私・・・」
「大丈夫、あの子の機材があなたを守ってくれるから。アンプも自宅用のを持って帰って。あなたの音色が、今の蒼の音色だから気にしないで」
私はうなずき、仏壇に線香を挙げた。遺影の写真さえ前髪でほとんど顔が分からなかったけれど、端正な顔立ちなのは分かった。手を合わせてお礼を言っていると、お母さんに声をかけられた。
「何うどんが食べたい?丼モノにする?」
お母さんの泣き顔は、私を見守っている人の顔に思えた。
奈月、私は奈月のおかげで一人じゃない状態でまた人生をやり直し始められたんだよ。そして奈月も一人じゃない。仮に一人になったと思った時は、私を思い出してほしい。私たちは、何を失っても私たちだけが残る。そんなことをこの日思った。