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【長編連載小説】絶望のキッズ携帯 第26話 魔王
ガキを連れて行ったのは俺たちが普段行く大衆的な寿司屋だ。客たちは黒霧島あたりの酒を陽気に飲み、気さくな大将はお約束のジョークを挟みながら小気味よく寿司を握る。そんな店で、俺たちは超高級焼酎である魔王のボトルを入れた。ガキの前で良い格好をしたかったのではない。さすがに魔王を入れた客に変なネタは出さないだろうし、最大限もてなしてくれるだろうと思ってのことだ。寿司が好きというからには、精一杯楽しんで貰わなければならない。
長崎のイワシは瀬戸内海で獲れるものと比較して大きく肉厚だ。そして太刀魚、この辺りではギンタと呼ぶそうだが、炙りが絶品だったりする。高級魚よりは大衆的な魚が美味い。長崎の海はそんなところらしい。特上寿司を三人前頼むと大将が近づいてきて、景気よかねーと冷やかした。他の客たちも魔王は飲めんばいと騒いでいる。和やかな店にガキも緊張せず馴染めているようだ。
大将が俺に尋ねた。
「あんたの子供?」
俺が首を左右に振ると、代わりに嫁が友達の子供だと答えた。ここの大将はなかなかにパワフルなジジイで、ガキにも話しかけた。
「将来寿司屋になるのはどげんね?」
どげん。寿司屋になるのはどうかと尋ねている。ガキには長崎弁の意味が分からず困っていると、大将がカウンターの向こうから出てきた。寿司屋の帽子とハッピを片手に持って。
「着てみんね」
着るよう言っている。ガキは驚きながらも嬉しそうにハッピを着て帽子を被った。
「これで立派な寿司屋ばい」
俺たちはガキと三人で写真を撮った。あとで見ると俺の笑顔は引きつっていたが、ガキは顔いっぱいに笑っていた。そのあとアワビを食べていた時の顔もそんな顔だった。お茶を飲み干したら、この顔も見納めか。こいつは明日の午前には長崎空港から飛び立っていく。神戸は憂鬱な街だと聞いている。ババアからもガキからも。それならもう一泊くらいどうだろうか。しかしそんなことを言い始めたらキリがないのだろう。このガキはババアのガキだ。ババアは、確かにバタフライやクロールでこのガキを育ててきたのかもしれないが、泳げもしない俺はガキを作ることもできなかった。嫁と二人の生活は幸せだ。しかし、自分とガキと嫁の三人で暮らす人生というのもまた幸せだったのかもしれない。何にせよ、後者の選択肢を嫁の人生から奪ったのは俺だ。翻訳家と結婚すると娘が言い出したら、その翻訳家の首を青龍刀でハネるべきだ。しかし歯医者と名乗って結婚を切り出し、やめて翻訳家になるような男などどうだろうか。ゴミとかクズとかそんな言葉で形容できない。死んで詫びようにも、死後の処理で迷惑をかける。どうしたら良いんだ。何で嫁は俺のそばにいるんだ。そばにいるなら殺してくれ。
顔色の変わった俺に気付いたのか、ガキが俺を凝視していた。我に帰り、無理矢理笑った。涙が出そうだったが、とにかく笑った。帰り道によりたいところはないかとガキに尋ねると、家でたくさん話がしたいと言われた。学校、友達、勉強、そしてババア。何の話でも聞いてやる。そして一つずつ紐解いて、最後に幸せな未来につながる一本の糸を探し出してやる。お前は、まだ間に合うんだ。