CDL代表メッセージ
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略歴
ケアデザイナーズラボ代表の大平怜也(おおひら・りょうや)と申します。本業は、株式会社ケアクラフトマンという会社の代表取締役で、鹿児島県で地域密着型通所介護、訪問看護、訪問入浴介護、居宅介護支援、小規模多機能型居宅介護のほか、人口750人の離島で福祉サービスを経営しています。
介護との出会い
福岡県の専門学校を卒業し、居酒屋のアルバイトでただただ平凡な毎日を過ごしていたある日、地元・鹿児島にいる父親から1本の電話が入りました。
鹿児島にいる父
「こっちに新しく特別養護老人ホームができるから、履歴書を送っといたぞ」
福岡の僕
「なんでだよ!!(青天の霹靂)」
これが私の人生の転機となりました。
今から遡ること約20年前…。
小・中はまずまずの成績だったものの高校で落ちこぼれ、卒業後は願書さえ出せば受かるようなデザイン系専門学校に進学し、勉強そっちのけで毎日遊んでいました。
そんな体たらくではもちろん就職することもできず、卒業後は居酒屋のアルバイトでなんとか食い繋いでいました。
しかしアルバイトを始めて9ヶ月が経った頃、突然のリストラにあってしまいました。いま思えば、業績が伸び悩び居酒屋を複数店舗経営する社長も苦渋の決断をしたんだと思います。アルバイトだけでなく数名の社員も解雇され、いよいよ路頭に迷いそうになった頃、父親から電話があり、鹿児島に帰ってきて特別養護老人ホームの就職試験を受けるよう言われたのです。
この電話がかかったきた時点で、父親は僕の履歴書をご丁寧に代筆し、すでに提出済みでした。地元に帰る気などさらさらなかった僕はだいぶ反発はしましたが、他に働き口もなかったのでしぶしぶ入社試験を受けることにしました。
しかしながら、結果は合格。
田舎なのでなにか口利きがあったんだと思います…。
介護のカの字も知らないどころか、僕は年配の人が苦手だでした。介護という仕事を想像してもどんなものなのか1ミリもイメージが湧きませんでした。
かなり悩みましたが、数ヶ月勤めたらまた福岡に戻ってこようと思い、特別養護老人ホームに就職することにしました。
そして2000年3月から特別養護老人ホームの介護職員として、僕のキャリアは始まりました。当時21才。
学校で学んだわけでもないし、資格もなければ経験もなく、何よりまったくやる気の湧かない就職でした。
辞める前提の就職
特養のオープンは4月だったので、就職直後の1ヶ月間は他施設での研修期間でした。そこで食事介助、おむつ交換、入浴介助などを一通り学びました。研修先の施設職員さんについて始めてオムツ交換に行った時は、血液混じりの軟便に遭遇し居室にいることさえできずに居室から飛び出してしまい、こんな仕事はとうてい続けられないと思いました。
とはいえすぐに逃げ出すのも格好がつかないので、嫌々ながらも出勤を続けていました。
4月に入り、特養がオープンして入所者さんが毎日4〜5人ずつ入所してきました。50床+ショートステイ12床の回廊型の従来型特養がすぐに満室になり、忙しくなっていきました。
仕事自体はおもしろくなかったものの、仲の良い後輩がいたり、ほぼすべての職員が介護未経験者のオープンスタッフだったので、フラットな人間関係が構築されていて職場の居心地は悪くありませんでした。それでもこの仕事をそう長くは続けないだろうと考えていました。
しかし同じ職場に彼女ができたこともあり(1年半で別れましたが)、気がつけば介護福祉士の受験資格(3年間の実務経験)を得るところまで続いていました。
ほとんど職員教育や育成研修をしない施設だったのですが、だからといって自ら学ぶということもなかったので、当時の自分の介護職としてのスキルはまったく磨かれていませんでした。
とにかく素早く仕事を終わらせて定時に退勤し、そのままパチンコ屋に行くことが当時の僕の日課でした。定時に帰るためにはスピード重視で仕事をこなさなければならないので、自分のペースで手早く介助を行い、いま思えば自立支援のかけらもないことをやっていました。
4年目に入り、せっかく受験資格も満たしているということで介護福祉士を受験することにし、ここで初めて介護の勉強をしました。当時25才。
プレイヤーとしての成長
その頃の介護福祉士国家試験はまず筆記試験があり、筆記試験を突破すると実技試験という流れでした。当時は実務者研修という制度がまだありませんでした。
受験に備え、まずは参考書を読んで筆記試験の勉強をしました。これは無事に一発で突破し、次に実技試験に備えてビデオを見たり仕事終わりに同僚と勉強会をしました。
取れるもんなら取ってみるか程度の受験動機でしたが、介護の勉強をしてみると意外とおもしろく感じ始めていました。知らないことだらけで、奥が深い。そして、無勉強のまま漫然と働いてきた自分の伸びしろが無限大に広がっていると思いました。
勉強するにつれ、仕事をおもしろく感じ始めたのもこのあたりからです。
従来型の特養でしたが、居室を3つのエリアに区分してグループケアをというものをやっていました。ちょうどユニット型特養が登場した頃で、僕はグループのリーダーをやっていました。
リーダーになった理由は、単なる輪番制だったからで、特に僕が優れていたからではありませんでした。それでも立場が変わると意識も変わり、この頃になると介護の仕事のおもしろさ、難しさ、そしてやりがいを強く感じるようになっていました。
摂食嚥下のメカニズム、ノーリフトやトランスファー、バイステックの7原則、認知症の中核症状とBPSD・・・。学びと自分の成長が楽しく、新たな知識や技術を得ることに貪欲になっていきました。
さらに2年経ち、今度はケアマネジャーの受験資格を得ました。これも一発合格し(試験は得意らしい)、ケアマネに合格した3年後には、人事異動により施設ケアマネをすることになりました。当時29才。
特養のケアマネというのはだいたい施設に1人の配置で、同じポジションの同僚というのがいません。つまり相談相手がいないということです。そして立場としては生活相談員よりは下で、介護職員よりは上というような微妙なポジションでした。中間管理職的ではありながら権限は何も持っていないという立ち位置です。
マネジメントの壁
介護職であれば、自分が介助スキルをあげると、それはそのまま利用者さんの利益になります。例えば自分が正しい移乗介助を身につけることで、利用者さんは痛くなかったり、怖くなかったり、残存機能を活用できたりするからです。現場の頃はこれが楽しくてたまりませんでした。
しかしケアマネジャーは、計画は立てますが自ら直接介助を行うのとはほとんどしません。現場のスタッフ達に計画通りに動いてもらうには“マネジメント”という役割をこなす必要がありました。
人を動かす力には、公的な力、個人の力、関係性の力が働きますが、このうち権限という公的な力を持たないので、自分が学んでスキルを身につけることで計画の説得力をあげ、現場スタッフに動いてもらうというやり方に熱心になっていました。
これは一生懸命勉強して自信がついた人に往々にしてあることだと思いますが、自分の正義感や正しさを振りかざして周りを攻撃してしまい、結果として誰もいうことを聞いてくれなくなるということも体験しました。
その時に出会ったのが『人を伸ばす力』というアメリカの心理学者が書いた本でした。思えば、これをきっかけに介護関連の勉強だけでなく、様々なビジネス本を読むようになったと思います。
施設ケアマネとしての勤務も4年に差し掛かった頃には、よい介護をするためには、現場職員のスキルアップだけではなく、人員の配置や育成・評価など仕組みの部分も重要だと思うようになっていました。そのためには仕組みを作る側のポジションに就くことが必要だとも思っていました。
仕組みを変えるのはなかなか難しいことです。当時の上司や施設長に上申することもありましたが、なかなか体制や仕組みを変えることは叶わない。となると、自分が施設長になるしかないわけですが、この組織に居続けながらそれは実現可能なのかと考えるようになり、その答えは否でした。
他に下心がなかったわけでもないですが(例えばもっと高い収入を目指したいとか)、自分が理想とするケアをするには自分でそういう場を作るしかないと考え、13年間お世話になった職場に別れを告げ、起業という道を選びました。当時34才。
起業、そして経営の壁
2012年12月に株式会社を設立し、事業開始のための準備期間を経て、2013年5月に民家改修型のデイサービスを開設しました。自分を含めて社員5名の零細企業でしたが、やる気となぜか自信にも満ち溢れていました。
しかし現実は、思うように利用が伸びず資金ショートしそうになったり社員の揉め事に頭を悩ませたり、経営者なら誰もが経験するようなことを多分に漏れず経験しつつも、なんとか生き延びているような状況でした。
デイサービスをオープンして9か月後に訪問看護、さらに3か月後には居宅介護支援をオープンさせました。
訪問看護を始めた理由は、地域に訪問看護ステーションがひとつもなかったため収益性と地域貢献の両方が見込めることと、管理者を任せられる人材が見つかったからでした。居宅介護支援を始めた理由はデイサービスの稼働率を上げるためです。このあたりで社員が10名を超えました。
そして訪問看護ステーションをオープンして3年後、会社は倒産の危機を迎えます。理由は、訪問看護管理者の独立です。
詳しく書けないことも多いので割愛しますが、社員と利用者の大半を失い、訪問看護ステーションの継続どころかデイサービスや居宅まで共倒れするほどの危機に陥りました。この時はヒト・カネ・モノの全てがうまくいっていませんでした。
あちこち奔走し、頭を下げ、ひたすら行動しまくってなんとか危機は乗り越えたものの、たかが十数名の会社ですらこんな危機にさらしてしまうような経営者では、会社の未来は明るくないなと思いました。
自分はなんでこの会社を始めたんだっけ?
自分はこの会社をどうしていきたいんだろう?
この問いを考え続け、3カ月ほど悩んだ末に、現在の企業理念を作りました。
『最期まで自分らしく生きる』
自分がこうありたいと心から思えることを企業理念にしました。企業理念としては「最期まで自分らしく生きられる社会をつくる」としました。
それと同時に、こんな小さな会社のままで終わりたくないとも思いました。もっと会社を成長させたいと思いました。この時点で訪問入浴、離島での福祉事業が増え社員は30名を超えていました。経営の世界でよく言われる30の壁です。
経営を学ぶ
今までもたくさん本は読んできたし、経営者仲間に相談したり、セミナーに参加したり、コンサルを受けたりもしていました。
でもそれは困った時に課題解決してくれそうなものに手を出しているにすぎず、こんなつまみ食いのような学びでは経営の全体像を捉えられないと思うようになっていました。
そこで、経営を体系的に学ぶ必要があると考え、MBAを取るという目標が生まれました。
MBAというのは、ビジネススクールと呼ばれる経営大学院に2年間通い、無事に卒業することで得られる学位で、日本語では経営学修士号と言います。
大学院に入学するまでも色んな葛藤はあったものの、2019年4月にグロービス経営大学院大学に入学しました。当時40才。
仕事をしながらクラス、事前課題、復習、サポート、学事イベントをこなすのはかなり大変で、人生で一番勉学に励んだと思います。それだけにグロービスでの学び、出会いは人生の転機であり貴重な財産になりました。
卒業要件となっている試験を突破し、所定単位をキッチリ取得し、2021年3月に無事に卒業することができました。
資格なし、経験なし、やる気なしと三拍子揃った底辺介護職員だった20年前からは考えられませんが、介護福祉士、介護支援専門員に加え、経営学修士(MBAホルダー)というタグを獲得しました。
資格や学位の取得だけではなく心の変化もありました。
長くは続かないと思っていたこの仕事でしたが、いつの間にか、自分は介護業界で生きていくと決めていました。
2021年には小規模多機能型居宅介護という事業が増え、社員数も50名を超えてきました。
よい経営がよい介護を実現する
もう亡くなっていますが、一倉定という著名なコンサルタントの言った言葉にとても共感し、これを自分の座右の銘としています。
「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも社長の責任である。「社長が知らないうちに起ったこと」でもすべて社長の責任なのだ。」
まさにその通りだと思います。
そして素晴らしい経営者は、個の力に頼るのではなく、仕組みの力に頼った経営をしています。優れた仕組みを作れるのが優れた経営者だと思っています。
介護という仕事の特徴として、利用者さん一人一人に関わる時間が長くニーズもそれぞれに大きく異なるため、必要となるサービスもまた異なり、それゆえに必要な知識や技術も広範囲にわたってくるというものがあります。
さらに、サービス提供するのもまたヒトなので、サービス品質が流動的で標準化しにくい。介護サービス経営というのはとても複雑で難しいのです。おまけに国が値段を決めるので、経営の最重要テーマである値付けも自分達ですることはできません。
この複雑なものを抽象的に捉え仕組み化していくのはなかなか至難の業です。
しかし歴史を振り返ってみると、同じような問題に直面し、それに答えを出し、成果を出してきた人たちもいます。それが理論やフレームワークとして転用できるカタチにまとめられているものも多くあります。
自社で起こる問題に自力だけで取り組むのはとても大変で、途方もないことです。
12 世紀のフランスの哲学者、シャルトルのベルナー ルは「巨人の肩の上に立つ」と言いました。(諸説あり)
この意味は、先人たちが積み上げた知見の上に新たな発見をすることです。この"先人たちが積み上げた知見"というのが理論やフレームワークなどですが、これらを学ぶことで抱えている問題・課題に取り組みやすくなりました。
ビジネススクールで経営学を学んでから、介護業界にももっとこういう学びの場がほしいし、広めたいと思いました。
もちろん、ただ学べばいいというわけではく、実行に移さなければなんの意味もありません。そして、実行する時には一緒に戦う仲間も重要です。社員達は同じ組織に所属するチームメンバーですが、同じ志を持ったよきライバルを社外に持つことも大事です。だからこそ巷には公式・非公式含め多くの経営者会が開かれています。
学ぶだけでなく、それぞれの実践を共有し、刺激を受けながらともに成長していける場があったら、それは最高なことだ、と思いました。
こうして、学び、出会い、対話し、刺激を受け、自己成長を促すオンラインサロンを作ろうと思い立ったのです。
サロンの目的
前置きが非常に長くなりましたが、このサロンの目指しているところを少しお話させていただきます。
私たちは、研修や先輩からの指導、または本などで日々色んなことを学んでいます。しかし、研修で教わったことがあまり役に立っていなかったり、苦労して覚えたことも使う機会がなくてすっかり忘れてしまったり、先輩に教わったやり方が通用しないということもたくさんあります。
心の中では、もっと実際に役に立つことを学びたい、もっと効率よく学びたい、個人の経験に基づくものではなく理論や法則といった確かなものを学びたい、と思っています。そしてなにより、介護の話で真剣に盛り上がれる仲間がほしいと思っています。
でも、なかなかそういった場はない。
あったとしても、見つかりにくかったり、ごく少数のクローズな場であったりします。ならば作ってしまおう、ということでこのサロンを立ち上げることにしました。
このサロンでは、理論や法則といった確かなことを学び、現場に活かす知恵に変換して現場に役立て、そして切磋琢磨する仲間と出会える場を作ることを目指しています。
運営メンバーは、国内やオランダの大学院でMBAを取った人や、社会福祉士、介護福祉士、介護講師などで構成されていて、全員が、今も家族の介護をしていたり介護従事者として働いている実務家です。
僕自身も、特別養護老人ホームで介護職員を9年、施設ケアマネを4年、その後起業して、今は経営者として10年目になります。
介護業界には、介護職員だけでも200万人以上の従事者がいますが、その熱量は様々です。介護という仕事に大志を抱く人もいれば、愚痴を吐きながら働いている人もいる。
でも、一緒に働きたい、共に語り合いたいと思うのは、介護の仕事が好きで、向上心があって、志も能力も高い人。そういう人たちと出会い、学び合い、繋がれる場が、ケアデザイナーズラボです。
一方で、手当たり次第になんでも学習すればよいかと言うとそうではありません。それぞれの立場や抱えている問題は様々で、自分が直面している課題に役立ち、かつ実践可能な学びでないと身につきません。
そこで私たちは、まず低い離職率がサービス経営を行う上での重要なイシューと考え、これに取り組むことができる経営者や施設長・管理者等のマネジメント層を対象に、離職防止に役立つ学びと議論の場を提供しようと思います。
とはいえ経営者や管理者層にコミュニティを限定するのではなく、現場で働くケア職や相談援助職などプレイヤーの方々の意見や織り込みながら全員参加で議論できる場も同時に作ります。
ケアデザイナーズラボの意味
2022年1月に行われた介護福祉士国家試験の第1問で、ケアの本質を書いたメイヤロフの問題が出題されました。
僕は、メイヤロフの言った「1人の人格をケアするとは、もっとも深い意味で、その人が成長すること、自己実現をたすけることである」という言葉がとてもすきです。
介護のしごとの目的は、介護が必要になった人の自己実現をたすけること。そのために私たちがやることは、ケアをデザインすることです。
デザインの意味は、「デザインとは、橋のカタチを考えることでなく、向う岸への渡り方を考えることである。」と、デザイン業界の巨匠・ディーター・ラムスが言っていますし、中国語ではデザインを"設計"と書きます。デザインとは、形や色や模様を施すことではなく、問題解決すること、という意味です。
この定義を当てはめると、僕らのやっていることもまさにデザインだと言えます。
僕らのやっていることって、ケアをデザインすることなんだ。介護という仕事の本質的な意味をついた言葉だと僕は思いました。
その人が自己実現するための手助けの方法を考える人、そういう意味を込めてケアデザイナーという造語を作り、ケアデザイナー達が集い、語り、学ぶ場としてケアデザイナーズラボという名前をつけました。
そしてこんな素敵なロゴもできました。
第1期の活動
サロンの目的を共有させていただきましたが、大風呂敷を広げても収集がつきません。そこでまずは、離職防止というテーマに絞って講義を提供していくことにしました。
介護業界は人手不足が深刻と言われていますが、この問題を解決するには、介護業界で働く人を増やし、介護業界から出ていく人を減らすという2つの方法しかありません。3つ目の方法として生産性を上げるという手段もあり、政府が4対1介護の実証実験を始めましたが、まだまだ現実的ではないと思います。
経営学の世界には、サービス・プロフィット・チェーンやバランスト・スコアカードといったフレームワークがありますが、この中でも社員を大事にすることをとても重要なこととして位置付けています。
どんなに水を注いでも、バケツの底に穴が開いていれば水は貯まりません。そもそも、穴の開いたバケツには誰も水を注がないでしょう。離職防止というのは、介護サービスにおける最重要課題のひとつと言えます。離職防止に役立つ理論を学び、現場でノウハウを積み上げていくことからケアデザイナーズラボの活動はスタートします。