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あってほしくない出来事は、たいていが起きる。

     「〜だったら嫌だ」「〜になるのが怖い」。そんなとき思う。「〜なりませんように」。これまでの人生の中で一体何度、願い、祈っただろう。「〜されたくない」「〜されたらどうしよう」……だが、いくら願っても、祈っても、その最悪は、起きる。残念ながらそれが現実だ。どんなに足掻き、回避しようと勇敢に行動したとしても……。

    最悪は起きる。そう言うと絶望的な気持ちになるだろう。頭の中に描いた未来は、予想通り行くはずはないと思うに違いない。では、予想通りに行かない人生なら、予想通りに行かないと絶望するしかないのだろうか。予想通りにならないのなら、望むだけ、希望するだけ、無駄である、とあなたは思うだろうか。

   私の場合。望む未来は来ないと分かったのはかなり昔だったように思う。本当は右に行きたい。けれど今右に行くと何かわからないが怖い。だから左に行く。本当は右に行きたいにも関わらず、だ。そして、後からやっぱり右がいいと思い直す。そして、大回りして右に戻る道を歩む。周りの目を必死に気にしながら……。私はそんな半生を生きてきた。いや、今でもそうである。

    何故こんなにもわたしは私の望む道を歩けないのか。そんなふうに自己嫌悪に陥ることもあった。いや、その連続だと言っていい。そして、疲れ果てて眠る。そしてどうしてもその答えを見つけ出せずに私が達した答えは、「最初から望まなければいい」なぜなら「最初から低い希望をしておけば変に期待して裏切られたと感じなくて済むし、その方が疲れないからだ」。

    つまり、わたしは明日に希望を望みながらも、希望を持つことを辞めた。そして、下を向いて、1歩先の足先が、ちゃんと地面に続いていることを確認する。よし、ちゃんと右足が前に出たな。じゃあ次は左だ。そんなふうに1つずつの歩みに安堵するような、小さい人生を今もなお、生き続けているのである。

   「そんな人生楽しいのか?」そう思うだろう。わたしは私の人生を省みることを辞めてしまった。つまり逆側からの客観視を辞めてしまった。私が今どんな境遇にいようが、明日が無事に来るように祈りながら布団に入って眠る瞬間だけがわたしの至福なのである。そんな人生に希望を見出すことの方が馬鹿げている。わたしは何か強い夢があるわけでもない。わたしはできれば不安に駆られずに一日を過ごせればあとはどうだっていいとすら、考えているのである。

    そうは言っても、朝は来る。朝はわたしを急き立てる。早く、早く、もっと早く。私はその声に突き動かされるだけのロボットだ。頭に浮かんだ命令を、チェックリストの1番上から1つずつこなして行くだけの機械である。努力とか、変化とか、改善とかそんな言葉は知らない。聞いたことはあるが、それをした所で「希望」が無ければ、わたしはそこを歩もうとはしないのである。それは分かりやすい怠惰ではない。サボタージュの先にあるのは破滅だと分かっているからだ。ならばどうしているのか?と言えば、例えるならわたしは最小限の勇気と知恵を振り絞り、ギリギリの崖っぷちで後ずさりすることを躊躇いつつも崖から遠ざかることの出来ない人なのである。

    わたしは怖がりだ。明日が怖い。特に怖いのがわたしのミスによって他の誰かが不幸になることが怖い。わたしはわたしの損失によって他の誰かの人生に関わってしまうことが恐ろしい。とてつもなく、耐えられない。そういう意味では私の家族もわたしの判断によってあらゆる被害を被る関係である。しかし、家族とは信頼関係が成り立っているので、最悪謝ってしまうことで、その損失を私という人生をフルフルで捧げることでなんとかすることができる気がしている(ならないよねそんなこと)。

    けれど、会社の同僚とか、友人とか、ちょこっとした知り合いだとそうはならない可能性が高いと思ってしまう。だから、なるべく損失を出したくないのだ。そんな不安に駆られるくらいなら、わたしは孤独を選ぶ。わたしはそんなことにさえ逃げを選ぶほど、臆病なのである。ここまで書いてきて、わたしははたと気がついた。わたしは人を、人間を、信じていないのだということに。

    人を信じることができる人は騙されやすいという。しかし、たとえ騙されたところで、多少の後悔はあるにせよ、それで良かったのだと思える人もいるらしい。わたしは人を100%信じてしまう。そして、騙される。そして後悔する。それで良かった……とは思えない。もう後悔したくない。だからもう人を信用することはやめる。騙されるからだ。そして、わたしはひとりぼっちとなった。もう誰も私は信用しない。誰もわたしを信用しない。それでいい。その不毛な世界が心地よい。一定の間隔を保ったまま、永遠に分かり合えない衛星のように、わたしとあなたはずっと同じままでいい。それでperfectだ。安定した世界がこうしてようやく完成するのである。

   私だって、信用されて嬉しくないわけが無い。信用されたい。信用されれば応えたくなる。だが、わたしは無限に応えようとしてしまう。そうして最後は私が壊れるか、私の中の信用が枯渇する。枯渇してわたしは再起不能になりたくない。そうしてまた、わたしは停滞の光に逃げ込む(包まれる)のである。この停滞こそ、わたしは真の幸せと呼ぶ。

   マンネリ、ルーティン。呼び名はいくらでもある。要は変化しない世界だ。変化は変化する瞬間に最大のピンチを迎える。その後、上手く新世界に馴染めるのか、はたまたキリキリマイに遭って、さらに別の新天地を目指さざるを得ないのか。それは変化してみないとわからない。なるべく変化しないで過ごせることが大切である。しかし、変化のない人生は成長が止まる。成長が止まれば崩壊が始まる。人生はかくも不安定なサーフィンを毎秒毎秒強いてくるものなのか。

   わたしは変化が嫌いだ。だが、もっと嫌いなのは、私の立ち位置が不安定に揺るがされる事である。その方が辛い。もし不安定な場所に立ち続けるのであれば、わたしは一目散に逃げたい。本当は「そこに居たい」自分を偽って。

   あとから戻ってくる?いやいや、現実にはそうはならない。戻れないからだ。人生は常に不可逆である。たとえミスだったとわかった時でも、わたしはこのミスを許容する世界を一人旅する浮浪者だ。わたしは常に怯えている。いつ、いかなる理由で、今の私の立っている場所が脅かされるのではないか。そんな恐怖に怯えているのである。悪いことは言わない。私と同じ考えを持たない方がいい。わたしは私の人生を全て使って私が安心できる立ち位置を模索する臆病者である。

MUSICAでした...♪*゚

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