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【小説】KIZUNAWA㊷ アルプス一万尺
上田北高以外、各県の代表校は全てがゴールし、藤田アナが交通規制解除の言葉を告げたスタジアムでは、上田北高校吹奏楽部の動きが活発になっていた。
優勝した千葉県代表の東部台千葉高等学校は女子と共にアベック優勝の栄冠に輝き月桂樹の冠を誇らしげにかぶり優勝インタビューも終了したのに帰路につく観客は殆どいない状態で、残った観客はオーロラビジョンに注目していた。
荻原もまた同様だ。画面に映る雅人の姿は、母校の襷を右手に巻き付けての堂々としたランを見せていた。荻原は祈りながらそれを見ていた。教え子である航平の夢を引き継ぎ、アクシデントに見舞われながらも胸を張って走る雅人は上田北高の教師として誇らしく思っていた。「もう少しだ! 頑張れ」祈りが期待へと変わった時だ、博文が荻原に声を掛けて来た。
「先生! 演奏させてもらえませんか?」
「残念だけれど、大会役員からストップがかかってしまってね」
荻原は内ポケットのタクトに手を当てながら言った。
「でも、北高以外の高校はすでにゴールをしています。自分たちが演奏しても他校に迷惑を掛ける事はないと思います。僕たちは、僕たちの音楽で柞山君を応援したいのです。やらせてもらえませんか? 僕たちの音楽を(鳴り物)なんて言われたままで上田に帰りたくありません」
博文は真剣だった。
「しかしですね」
「柞山君は今、必死に走っています。僕たちも彼の友達です。僕たちの音楽で彼の背中を押したいのです。先生! やらせて下さい。準備は既にできています」
「……」
荻原は吹奏楽部の部員たちに目をやった。彼らの熱いまなざしは顧問教諭に集中している。演奏はさせてあげたい、しかし、大会運営に迷惑が掛かってしまったらと考えると簡単に許可は出来ない。
「先生がタクトを振れないのであれば僕が振ります。やらせて下さい」
吹奏楽部全員が荻原のタクトを待っていた。荻原はこの子たちの思いを無視 する事は出来ないと思った。「責任は自分が取ろう」今ここで、子どもたちが自分たちの音楽で友達を応援したいと願う優しい気持ちを無視したら教育のプロとして悔いを残す事になる。大切なのは、この子たちの中に宿った気持ちを育てる事なのだと思い決心をした。
「吉里君ならどんな構成で柞山君を応援しますか?」
荻原の質問に博文は若干の戸惑いから少し間をおいたが、それでも冷静に答えた。
「感謝と声援で演奏を構成します。最後までスタジアムに残って下さった観客の方々や、支援して下さった多くの方に感謝し、今も頑張って走っている仲間の背中に声援を送ります」
「選曲は?」
「……」
答えに詰まった博文に荻原は教育者としての厳しい問いを投げ掛けた。
「君なら部長として、どんな曲を選曲しますか?」
「……『いきものがかり』さんの楽曲から名曲『ありがとう』を演奏させて頂き、続いて、北高の十八番(おはこ)『アルプス一万尺』を柞山君がゴールするまでリフレインします。これでやらせて下さい」
アルプス一万尺はサッカー部のためにアレンジした曲だった。この曲で応援すると不思議と点が入った事から運動部全般からリクエストが殺到した曲だ。長野県の高校に相応しい軽快な曲の流れにアレンジされていた。
「これでは駄目ですか?」
博文は荻原の問いに、問いで答えた。
「素晴らしい選曲だと思いますよ」
荻原は言った。
「やりましょう! 『ありがとう』から『アルプス一万尺』を演奏しましょう」
「ハッ、はい!」
「北高の音楽を奏でなさい! そして君たちの心にある思いを、聴衆に響かせなさい!」
荻原は内ポケットのタクトを取り出した。
「これは君が振りなさい。全ての責任は私が取ります」
荻原はタクトを博文に渡した。いざとなれば職を辞する覚悟を決めてた行為である。
博文は吹奏楽全員に向かって叫んだ。
「行くぞ! アルプス一万尺!」吹奏楽部全員が笑顔でそれぞれの楽器を構えた。
「僕が振る! コンマスは鶴田副部長、君に頼む」
「分かりました」
鶴田は普段博文が座る位置に移動した。
「まずは感謝の気持ちを込めて、『いきものがかり』の楽曲『ありがとう』、続けて『アルプス一万尺』のリフレイン。柞山君がゴールするまで絶対に楽器を置くな!」
博文の言葉に、楽器担当でない部員が直ちに反応した。
スケッチブックに『いきものがかり・ありがとう』とサインペンで書くとスタジアムを駆け回ったのだ。
「上田北高です。知っている方は一緒に歌って下さい」
「私たちの音楽を聴いて下さい」
「僕たちの仲間を一緒に応援して欲しいのです。今必死にスタジアムに向かって走っている僕らの友達を……」
それぞれの部員が観客に呼びかけ、叫びながら走り回っていた。オーロラビジョンには必死に走る雅人の姿が映し出されている。
北高の異様な動きに気付いた大会運営委員会の役員が慌てて止めに遣って来たのは言うまでもない。
「君たちは何をしている。鳴り物は禁止だと言ったはずです」
怒号と共に走って来たのは、ブレザー姿の男たちである。両手を広げて制止したのは荻原だ。
「鳴り物だとは私達の吹奏楽を馬鹿にする気ですか!」
荻原の迫力に役員たちは一瞬たじろぐと動きを止めた。
「先生! 陸上の応援に吹奏楽が入るなど聞いた事がありませんよ」
役員の一人が叫んだ。
「本校以外の選手は全てゴールしていますし、優勝インタビューも終了しています。しかし、スタンドには多くの方々が残って下さり、生徒のゴールを見守ろうとして下さっています。私たちはその方々への感謝の気持ちを、音楽で伝えたいだけです」
「陸上のスタジアムでは上田北高の常識は雑音と捉えられますよ。止めなさい!」
「それを決めるのは聴衆の方々でしょう。雑音と捉えられたならば直ぐに中止します。どうか子どもたちに、感謝の気持ちと友人を応援するチャンスを与えて下さい。後に問題となる様でしたら、全責任は顧問教師の私が負います。お願いします」
荻原は必死だった。職を辞する覚悟を決めた一人の教師の姿に、観客の一人が立ち上がり叫んだ。
「この辺りに座っているのは長野県人会の人間だ! 音を奏でる事の何が悪いんだ、私たちは上田北高校を支持するぞ! そこの役員は引っ込め」
男の言葉に、長野県人会の人々が一斉に立ち上がった。航平の両親も写真を抱えて立った。中田家族も立ち上がって支持を訴えたが、明日香だけは座ったまま俯いていた。
荻原は博文に合図を送った。軽く頷いた博文は、タクトを大きく振り上げる。
『〽ありがとうって伝えたくて、あなたを見つめたけど、繋がれた右手は誰よりも優しく、ほら、この声を受け止めている〽』
演奏に合わせてスタジアムでは口ずさむ人も出て来た。その歌詞は正に達也と太陽を繋いでいたテザーを意味しているかに聞こえた。
「アルプス一万尺!」
博文の号令で曲は変化したのは、雅人が記念公園に入る直前の事だった。
〽アルプス一万尺、小鑓の上でアルペン踊りを、さあ躍りましょ! ラ~ンラ・ララ・ラン・ラン・ラン・ラ~ンラ・ララ・ランランランラン・ラ~ン・ラ~ンラ・ララ・ラン・ラン・ラン・ラ~ンラ・ララ・ランランランラン・ラ~ン〽
雅人は走る。何も考えずにただひたすらゴールを目指す。胸に掛けた襷より、右手に巻き付けた襷の重みを感じながら、風の様に……。
スタジアムが近づくにつれ、先導の白バイが道を開けた。雅人は、信号を左に曲がりスタジアムの敷地内の記念公園の遊歩道に入った。
公園の入口に横川と原子がバイクに跨っているのが見えた。スタジアムからは『アルプス一万尺』のメロディーが聞こえている。
〽ラ~ンラ・ララ・ラン・ラン・ラン・ラ~ンラ・ララ・ランランランラン・ラ~ン〽の大合唱であった。
「最後のランナーが帰ってきます。上田北高校の柞山選手です」
藤田アナは実況を続けていた。
「スタジアムが揺れています。歓喜の拍手と大合唱が最後のランナーを迎えようとしています。私の記憶が正しければ陸上競技の応援席に吹奏楽が入った事はないと思います。しかし、今日のスタジアムは確かに揺れています。観客がアルプス一万尺の曲を大合唱し飛び跳ねているからです」
藤田アナの言葉が終わる頃、雅人がスタジアムに帰ってきた。割れんばかりの声援は更に大きくなり、アルプス一万尺の大合唱が彼の背中を押していた。トラックのゴールラインに上田北高の選手と茉梨子が並んでいた。仲間の肩を借りて片足で立つ痛々しい達也の姿が、オーロラビジョンに映し出されていた。
「お兄ちゃんが映って……」
中田は明日香に伝え様としたが、その言葉は途中で止まった。気付くと明日香は立ち上がり、手拍子を打ちながら歌い、飛び跳ねていたのだ。自らの殻を破った少女の姿は、家族の声を詰まらせていた。
ここに来て良かった。「ありがとう! ありがとう!」と中田は泣きながら心の中で叫び続けていた。
〽ラ~ンラ・ララ・ラン・ラン・ラン・ラ~ンラ・ララ・ランランランラン・ラ~ン〽
「それぞれの想いでこのスタジアムを訪れた人々が、ひとつになって最後のランナーを迎えています。上田北高の選手がゴールラインに集まります。六区の西之園選手もいますね」
藤田アナの実況には台本がない。あったとしても彼はそれを無視して語ったであろう。
「他校の選手もグラウンドに出て来ています。優勝した東部台千葉の選手は飛び跳ねています。殆どの選手が歌っています」
母校の襷は第一コーナーから第二コーナーに差し掛かっていた。
「代表四七校中、最後の学校が帰ってまいりました。私は、レースが始まる前、彼らの挑戦を無謀だと思っていました。確かに最終ランナーになってしまった事は否めません! しかし、人と違っているから非常識と言われても、信じる目標に向かって真っすぐに走り続けた若者たちがここにいます。ハンデを持つ仲間のために一秒でも速く襷を繋げ、区間賞をとった選手がいました。視界のない中でも友人を信じて走った選手は、アクシデントに見舞われながらも、這いつくばって思いを託しました。自らの記録と栄光を捨て、ひたすら友達を待ち続けたリーダーが、今走っています。彼らがこのレースを通して私たちに訴えたのは、彼らを否定するのではなく、皆がひとつになった時に、世界は一歩前進するという事ではないでしょうか? 現代において忘れ去られつつある言葉。日本人が本来持っている大切な事柄、人が人を信じ、待ち、許すという大切な心『思いやりと愛』こそが、今このスタジアムに響き渡る大合唱の答えなのです」藤田アナは興奮していた。揺れるスタジアムが藤田アナの言葉を震わせていたのだ。
雅人は第四コーナーを回った。ゴールテープが張られ、その向こうには仲間が待っていた。彼は、右手に巻き付けた母校の襷を解きほぐすと両手で大空に掲げて走った。
ゴールに飛び込んだ雅人は真っ先に達也に抱き「ありがとう」と何度も繰り返し言った。溢れ出る涙を抑えきれずに泣いた。周りを取り囲んでいた上田北高の選手たちは、やがてひとつの輪になり抱き合った。涙に濡れた絆輪へ大きな拍手が贈られ、それは何時までも鳴り止む事はなかった。
雅人は襷を大空に掲げていた。茉梨子には、雅人が掲げたそれを、藁馬がくわえて大空に昇って行く姿がはっきり見えた。藁馬はやがて羽を生やし、天馬になった。羽ばたく翼は更に高く飛び、航平の待つ天国(そら)へ消えて行った。
茉梨子のつぶらな瞳から大粒の雫が頬を伝わり、輝きながら大地に落ちて行った。溢れ落ちる熱い思いを、響きわたる大合唱が優しく抱きしめる様に包み込んでいた。
つづく