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【小説】KIZUNAWA㉛ 3区健次郎、貯金を取り戻せ!
健次郎は、ふらふらで蛇行しながら向かってくる哲夫を見ていた。
「哲夫! 負けるな! テツなら大丈夫だ、ここまで走ってこい」
そう叫ぶ健次郎の目には少しづつ大きくなってくる哲夫の姿が映っている。そして哲夫は、リレーラインを越えた。
「すまん、貯金つかっちまた」
「俺が取り返してやる心配するな」
ふらふらで託された襷は健次郎の胸に固定される。
健次郎のゼッケンには一言しか書いていなかった。
(ケン、皆が信じてる。貯金を崩すなよ!)の一言だった。何時も沈着冷静の健次郎と栄は学校でも進学クラスで文武両道を貫いている。と言っても健次郎は栄とは立場が違った。健次郎は父を早くに亡くし、母一人子一人の母子家庭で育って来た。健次郎の母は女手一つで小さな小料理屋を経営し健次郎を育てていた。息子が幼い頃からやりたい事も我慢し、家庭の貧困に耐えている事も分かっていたが、どうする事も出来ずにいた。健次郎が中学を卒業したら就職すると言い出した時、母は己の不甲斐なさに涙した。学校に相談したが公立中学の担任教師は「そうですか、仕方がありませんね」と言うのみだった。
小さな店はそれなりに繫盛はしていた。地元の交番の警官や学校の教師と言った常連客が客層の質を上げてくれるお陰で安定した収入もあったが、食材料に拘った料理のため味は評価されるが、利益に繋がらないのが現状だったのだ。健次郎が建築の勉強をしたいと思っている事は分かっていたが大学に通わせる蓄えはなかった。そんなある日の昼間、店の開店前に常連で、私立の中高一貫高校の教師、宮島が店にやって来て一枚のパンフレットを差し出した。『奨学金制度の勧め』と書かれた一枚の紙が健次郎の運命を変えた。
「勿論返金しなければなりませんが、それは健次郎君が社会人になってから自分で返えせば良いのですよ」
宮島は出来るだけ子どもの希望を優先すべきと訴えた。健次郎は、この制度を利用し上田北高等学校に入学した。そして、大学は親に負担を掛けたくないと、国立大学を目指して必死に勉強している。苦労をしている反面、人には優しい性格で、高校一年の時、同じ進学クラスで知り合った達也と将来の夢を語った事があった。障がいを持つ身で引っ込みがちだった達也は自分の夢は建築家になる事と言った。交通系の仕事に就いて全国に障がい者が安全で安心して利用出来る駅を作りたいという壮大な夢を語った。健次郎も建築の仕事がしたいと思っていたため、話は大いに盛り上がったのは言うまでもない。そんな達也が今、夢に向かって一歩踏み出した。健次郎は何としてもこの一歩を手助けしたいと思っていた。二区で若干使ってしまった貯金、自分が取り返す。何時も沈着冷静な健次郎が練習のペースを崩しスピードを上げたのにはこんな経緯があった。
「三区には甲府農林のダニエル選手がいますね」
藤田アナが瀬田に語り掛けた。
「超高校級のランナーですから期待できますね」
「上田北高との差が縮まりますでしょうか?」
「間違いなく追い付くでしょうね」
「高梨さん! ダニエル選手の状況をレポートお願いします」
「はい! 中継車は二位集団に付けていますが、ダニエル選手に千葉の須田選手が付いています。並走状態です。一〇〇メートルほど離れて第三集団が兵庫、長崎、東京、山形、青森、神奈川の六人が競っています」
「トップとの差は縮んでいますか?」
「五キロの地点で測ったのですが、縮むどころか離れています。注目のダニエル選手の調子が悪いと言う訳では無く、それ以上に上田北高の逆井選手が黙々とペースを上げているようです」
「逆井選手ですね。資料によれば逆井さんは奨学金制度を使って進学、将来は建築家を目指して勉強している苦学生とありますが……」
「表情を変えずにひたすら走っています。後続を気にせず前だけを見て走っている様に見えますね」
「高校の部活動は学校教育の一環ですから、それぞれの学校や生徒の考え方で指導方針も変わる事でしょう。最近は大学進学やプロへの足掛かりとして高校の部活動を行う学校も増えているようですが、上田北高は文武両道を貫いているようですね」
藤田アナの言葉はマニュアルにない言葉であった。
「そうは言っても、競技は順位を競うために存在しますからね」
瀬田が反駁した。大人たちの小さな議論をよそに健次郎は、ひたすら中継地点を目指していた。やがて栄の姿が見え始める。栄は両手を上げて満面の笑みで手を振っていた。
「栄! 君は本当に勇気をくれる奴だね」
健次郎は心で囁きながら襷を取った。
「ケン! 健次郎!」
仲間の声が健次郎の耳に響いてきてリレーラインまで一〇メートルを切った時、栄はゆっくり走り出した。汗が浸み込んだ襷は健次郎の手から栄の手に渡った。
四区に繋がった襷は軽快に走り出した。
つづく