【小説】KIZUNAWA① 全国高校駅伝長野県予選
マネージャーを含めて八人の駅伝部、誰一人怪我をする事が許されない。そんな状況の中、彼らが選んだ戦術は、インターハイを捨て全国高等学校駅伝競走大会一本に勝負を賭けると言う事であった。
秋、長野県下において無名の上田北高等学校駅伝部は快挙を成し遂げる。全国大会出場の切符を勝ち取ったのだ。しかし、ゴール直後に彼らを襲ったのは、全国大会出場も危ぶまれる大悲劇であった。こんな状況の中、次々と駅伝部に襲い掛かる問題、それでも前に進む彼らを必死で支援する教師たち。その思いの輪はやがて地域の人々に拡がっていく。
さて、上田北高駅伝部は全国大会に出場出来るのか?
常識とは? 教育とは? 若者たちの無謀な挑戦を通して令和の時代に伝えたい日本人の心、仲間を信じ友達を思いやる心が周囲の人々に拡がるという大切な絆輪を描いた長編作品KIZUNAWA。是非お楽しみください。
プロローグ
季節を惑わす小春風が吹いていた。それでも空に漂ううろこ雲が、やがて到来する寒く厳しい季節を告げている。
歩道に一人の老人がポータブルラジオを耳元で振っている。受信感度が悪く聴取出来ないのであろう。やがて老人は振るのをやめて軽く叩き始めた。昭和生まれの人間は、電気製品が思う様に動かないと叩く癖がある。彼は正に典型的な昭和生まれだった。やがて、ザザーという雑音に混じって男性の声が流れて来た。
「前人未到の大記録が生まれ様としています」
微かに聞こえたのは、地方局のFM放送だった。
「このまま行けば間違いなく完全勝利でしょうね」
解説者も半分は納得がいかない語り口でこの状況を語っている。
「大会前には名前も挙がっていなかった高校ですよ。部員も八人しかいないし、内一人は女子マネージャーと資料には記載されていますが、一区から全て区間賞です」
「一区と六区は、区間新記録ですしね」
解説者も呆気に取られていた。
「このままのペースで行けば最後の七区も区間新記録でしょうか?」
「間違いないでしょうね! 度肝を抜かれるとはこういう事なのでしょう」
上田北高校駅伝部は部員がいない。全国大会に出場出来れば、それを切っ掛けに入部希望者も増えるであろうと目論んだのは、キャプテンで唯一の三年生の鎌田航平(かまたこうへい)である。自分の卒業後に駅伝部を存続させるには、最後の大会である全国高等学校駅伝競走大会長野県予選に、目標を定めて部員の怪我を避けるために他の大会に出場しなかったのである。上田北高駅伝部が長野県下で注目されない駅伝部であった事にはこんな理由があったのだ。航平の作戦は見事に的を射た。上田北高の最終ランナーは途轍もないスピードでゴールを目指していたのである。
航平がこの提案をしたのは彼がキャプテンに就任した春の事だ。陸上部から離脱して駅伝部を創部して三年、上級生が卒業して一気に部員が減った。新入生は、出ると負けの駅伝部を敬遠して短距離中心の陸上部に入部した。部員は、新三年生の自分と、新二年生が八人残っているのみであった。しかし、その中の石川と言う二年生が退部した。とうとう駅伝部はマネージャーを含めて八人の部になった。誰か一人でも怪我をしたらレースにも出場出来ない状況になったのである。
「皆に相談したい事がある」
航平は集まった部員に語り掛けた。
「宮島先生とも話したのだけれど、インターハイは捨て様と思う。夏までは練習のみの活動にし、メンタルとフィジカル作りに専念して、秋の全国高校駅伝競走長野県予選一本に集中したいんだ」
航平の言葉に部員たちは無言であった。
「皆の意見を聞いておきたい」
航平は無言で自分を見つめている部員を見回した。
「理由は? 理由を聞かせて下さい」
二年生の中で中心的存在の柞山雅人(こおさやままさと)が口火を切った。
「……」
「理由も無くインターハイを諦める事は出来ません」
雅人は中等部時代陸上部に所属して一二〇メートルハードル走では県内で少しは名の通った選手であった。「一緒に駅伝で全国を目指さないか?」と言う航平の誘いに乗ったのは昨年の春、まさか一年後に駅伝部がこんな状態になるとは思ってもいなかったし、ハードル走に限界を感じていたのも理由の一つだ。
「怪我をさせたくない、これが理由だ」
航平は正直に答えた。
「怪我が怖いから目標を諦めろと言う事ですか?」
「目標は諦めない! ただ、一本に絞って戦いたい」
「インターハイ以外のレースはどうするお考えですか?」
一区の諏訪豊(すわゆたか)が雅人に続いた。
「出場しない」
航平は言い切った。
「そんな!」
豊は少し声を荒げていた。
「……すまん」
「誰も怪我をする事を前提に走っていません」
三区を担当している逆井健次郎(さかさいけんじろう)だった。
「その通りだと思う」
「だったらインターハイに目標を設定して、誰も怪我をしないで戦えば、秋にもう一度チャンスが来るとは思いませんか?」
健次郎の言う事にも一理ある。
「それも考えた」
「それなら、それで行きましょうよ」
健次郎の言葉に航平は静かに首を振った。
「どうして?」
「誰だって怪我をしたくてしている訳ではない。石川の事を見ていると特にそう思う。しかし、石川は小さなレースで全治三か月の疲労骨折だった。それを切っ掛けに退部した。二度と君たちには石川と同じ思いをさせたくないと思った」
「あいつが退部したのは、あいつが自分から逃げたからでしょう」
健次郎は怒っていた。疲労骨折は練習不足で起こる怪我ではない。逆に練習のやりすぎ過ぎで、筋肉が疲労しているのに、レースの勢いでアドレナリンが上昇し気持ちと体のバランスが崩れて筋肉が骨を守り切れずに起こる怪我が殆どである。石川雅弘(いしかわまさひろ)は正にそれであった。県北の交流大会で悲劇が雅弘を襲った。上田北高の襷は途切れた。全治三か月、インターハイには間に合わないし、もう一度同じ事を繰り返したら走る事もままならないと医者は言った。自暴自棄になった雅弘は必死に止める仲間に別れを告げて部を去って行ったのである。
「……」
航平は何も言えなかった。代わりに口を開いたのはマネージャーの広江茉梨子(ひろえまりこ)である。
「石川君が怪我をしてしまったのは私の責任だと思っている。私が的確なフィジカルトレーニングを提案出来なかったからあんな結果になってしまったの」
茉梨子は俯いていた。
「違う! あいつが逃げたから、自分を諦めたからだ。広江が責任を感じる必要はないよ」
健次郎と雅弘は小学生の頃から競い合いながらも共に共通の夢に向かって進み続けて来た。それゆえに雅弘の離脱は健次郎にとって裏切りと感じる怒りにも似た感情が込み上げていたのである。
「だから、だからね、私フィジカルトレーニングの勉強を始めたの。今から頑張っても皆の筋肉を完全に作るには、インターハイの予選に私も間に合わないと思うの。夏の暑い時期に危険を冒して走り、誰か一人でも怪我をしてしまったらと思うと、私もキャプテンの作戦に従うべきだと思うの」
茉梨子の言葉には力があった。航平の作戦を否定する部員はいなくなった。 しかし、この時、後に彼らを襲う悲劇を誰も知らなかったのである。ただ、部室の外で彼らの会話を聞いていた松葉杖の少年だけは航平の体を心配し、不安を隠せずにいたのであった。
航平は後ろを振り返る事もなく軽快に走っていた。今年の春に皆と決め、ここまで一丸となって走って来た。もう少し、このままゴールラインを越えれば全国大会への切符が手に入る。足は軽く調子が良かった。
「全国大会も母校の襷で参加出来ますので、あの襷は京都のゴールまで繋がって行くのでしょう」
アナウンサーと解説者のやり取りがはっきりと聞こえる様になったのは老人が備え付けのアンテナを伸ばしたからだった。
航平は仲間の顔を思い浮かべながら大きく右に舵を切る。視界に長野国際陸上競技場が浮かび上がり、その姿は、みるみる大きくなって来た。
航平の姿が映し出された競技場のオーロラビジョン。ゴールには航平を待つ部員たちが茉梨子を中心に手をつないで祈りに似た呼吸を繰り返している。画面から航平の姿が消えたと同時に彼らの目には航平の姿が三次元で飛び込んで来た。まばらな拍手とどよめきの中、無名の高校は、今! 快記録を刻もうとしていた。
祈り続ける仲間の姿を左に見ながら航平は第一コーナーから第二、第三コーナーへ、第四コーナーに差し掛かった時、航平は襷を外して右手に持ち変えるとそれを天に高くかざしていた。日の光に輝く襷と共にゴールに飛び込んだ航平に部員たちが一斉に抱き着いた。友情の輪は、掲げられた襷を指さし一斉に飛び跳ねる。大粒の涙が着古したジャージに浸み込み、歓喜の声はスタジアムに響き渡っていた。ゴールを知らせる花火が打ちあがり六発の爆音が大空に轟いた。
その光景を、茉梨子は呆然と見ていた。やがて仲間の姿は涙でにじんだ風景として茉梨子の脳裏に刻まれた。茉梨子が我に返り輪へ加わろうと歩み寄った瞬間、異変は突然やって来た。
目の前で輝き力強くかざされていた襷が、緩やかに宙を舞い固く抱き合っていた友情の輪は、スローモーションの様に解けて広がり始めた。航平が近寄る茉梨子に力なくもたれ掛り彼女の胸に倒れこんだ。
「どうした? 鎌田先輩、先輩」
一区を走った豊が、茉梨子の腕の中でぐったりとしている航平の肩を揺すりながら叫んだ。
「先輩、先輩!」
茉梨子も航平を抱きしめながら叫び続けた。
「ドクター!」
異変に気が付いた大会役員の一人が本部テントに向かって叫ぶ。大会ドクターが足早に駆けつけて来て脈をとる。
「救急車! 大至急救急車を!」
ドクターが本部に向かって怒鳴る。大会協力のため待機していた救急隊員が二人駆け寄って来た。
「急性心筋梗塞の疑いがある。至急CT設備のある病院に運んでくれ! 急いで!」
つづく