【小説】KIZUNAWA㉚ 2区 失速・テツよしっかりしろ!
哲夫はゼッケンのピンを外していた。
(哲夫! 君は、責任感が強いから、何時も無理をする癖があるぞ。辛かったら仲間を頼って良いんだぞ。三キロを舐めるなよ。頑張れ! 中村哲夫!)
茉梨子の文字に哲夫は笑いながら頷いた。そして「分かっているんだけどなー」と心で呟いていた。
豊は胸から襷を外した。息が切れ、今にも足がつりそうで苦しい。しかし、どんどん近づいて来る哲夫の姿に力が湧いていた。
豊のスピードに合わせて哲夫がスタートを切る。
「頼む!」
叫びながら豊は倒れ込んだ。二六分四〇秒、区間新記録だ。
襷が二区に繋がった。
「後続の集団からは甲府農林高校が飛び出しました。東部台千葉高校が付いて行きます。先頭との差は約二分三〇秒、距離にして九〇〇メートルと言ったところでしょうか?」
「まあ、駅伝は七人で行う競技ですから一区だけで判断は出来ませんよー」
瀬田は藤田アナの言葉を遠回しに否定していた。
正々堂々と戦いに挑んだ市立遠野は5位集団後退したが、高梨の言葉通りこのスポーツマンシップを笑う者はひとりもいない。
呼吸の乱れと今にもつりそうな両足に、立っていられなくなった豊は倒れながら遠ざかる哲夫の背中に、再び「たた頼む、哲夫」と独り言の様に呟いた。涙で霞んで見える哲夫の背中は、みるみる小さくなって行く。サッカー部の仲間が一斉に駆け寄って豊を抱きかかえて言った。
「諏訪、最高のランだ!」
しかし、それに答える気力も体力も豊かに残ってはいなかった。携帯酸素を口に当てられてひたすら頷く姿からは、全力を出し切った若者の誇りがにじみ出ていた。
「瀬田さんの予想を覆し、後続を一キロ近く離しての一人旅、素晴らしい記録が生まれましたね」
藤田アナは誇らしげに語っていた。
「……」
「さすがの瀬田さんも呆気に取られているようです」
哲夫は快調に飛ばしていた。一キロを通過して二分四六秒、明らかに練習よりも速いペースだった。一区で豊が作った後続との差、九〇〇メートルを、一〇〇メートル伸ばしてやる。哲夫はそう考えていた。しかし、二キロを過ぎた時にオーバーペースのツケが回って来た。残り五〇〇メートルで哲夫の心臓は激しく打たれ始めた。呼吸が乱れ右脇腹に違和感を覚えた。スピードは極端に遅くなり、ついには顎も上がって来た。
走りは蛇行し始まり明らかに異常だ。
「高梨さん! 中村選手の様子がおかしく在りませんか?」
「辛そうですね。短い距離はペース配分が難しいんですよ。彼は明らかにそれを間違えてしまったのかな」
「後続との距離がここで一気に縮まりそうですね」
「さあ? それは分かりませんよ。人間には気力という力があります。私もそんな経験が何度もありました。例えばオリンピックの三五キロ地点! あの時はもう駄目かと思いました。サングラスを取った時、家族がそこにいました。母が振っている日の丸を見たら何故か力が湧いてきて、手にしたサングラスを母に向かって投げました。不思議な力でした」
高梨の言葉には重みがあった。
哲夫は苦しかった。後少しなのに足が上がらない。息が苦しくて呼吸が荒く真直ぐ走れない。
「もう駄目だ!」
弱気という虫が騒ぎ出した時だった。
キコキコキコと油の切れた自転車を漕ぐ音が聞こえて来た。苦しみの中、哲夫は音のする方向に目を向けた。茉梨子だった。サドルを体に合わせれば良いのに低いままで、肩を怒らせて必死にペダルを漕ぐ茉梨子がそこにいた。
「サドル上げろよ!」
「錆びついて動かないのよ!」
「練習終りに俺が直してやるよ」
何時かそう言ったのに、直してやる事を怠っていた事を哲夫はもうろうとする意識の中で思い出した。
「広江! ゴメン! サドル直してなかったな」
そう呼び掛ける哲夫に茉梨子の笑窪が語り掛ける。
「良いよ! それより頑張れ! 君なら大丈夫! 絶対に走り切れるから」
「でも、もう限界だ!」
「しっかりしろ! 前を見ろ! 顎引いて! こんな所で負けるな!」
「行けるかな?」
「行ける。哲夫なら行ける」
「行ける。俺なら行ける。長い人生のたったの数分間だ、西之園のために、ここで倒れる訳にはいかない。俺なら行ける。もう一歩前に、俺は苦しくない」
哲夫は顎を引いた。前を見て歯を食いしばった。
「さあ! ラスト! 行くよ!」
茉梨子は自転車を立ち漕ぎすると哲夫を追い越して行った。哲夫は必死になって彼女に付いて走った。
この時の事を哲夫は殆ど覚えていない。健次郎に襷を渡した事も、彼が「任せろ」と叫んで走って行った事も、仲間が携帯酸素を持って
「大丈夫か? テツしっかりしろ!」
と叫んでいた事も哲夫は覚えていない。我に返った哲夫は辺りを見回して茉梨子の姿を捜した。勿論そこに茉梨子の姿はない。
襷は必死の思いで三区に託された。
つづく