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【小説】KIZUNAWA㉞ 走り出した盲目のランナーたち
整備が行き届いた道路を走り出し「まったくこの国はどうなっているんだ!」と太陽は思っていた。普段二人が練習していた歩道や車道の左端に比べて、アスファルトの車道は殆ど凹凸もなく走りやすかった。本来なら弱者である歩行者が歩きやすい様に車道より歩道が平らでなければいけないと太陽は思ったからだ。ただ、今日の二人にとっては有難かった。達也に太陽が伝える段差の情報が殆どなくなったからだ。この走りやすい車道が後に悪魔の様に二人を襲って来る事になるとは、この時、太陽は気付いていなかった。
「楠君のゼッケンにはなんて書いてあったの?」
走り出してすぐ達也は太陽に聞いた。二人が優生を待つ間、太陽は達也のゼッケンを外して茉梨子のメッセージを読み上げた。
(達ちゃん! 君がいなかったら私たちは京都には来られなかった。ありがとう。その勇気はとても格好良いと思う。太陽を信じて最後まで走り抜いて! 約束の場所で待ってるね)
心の底からにじみ出た感謝の気持ちだ。達也たちは第六中継地点を自分たちのゴールに定めていた。
「そこで待っている。だから無理をしないで必ず来てね、約束よ」
茉梨子は笑窪で言っていた。
「俺のはどうでも良いよ」
太陽へのメッセージが
(失敗したら! ドロップキック!)
の一行だった事を達也は知らない。
「教えてよ」
「約束の場所まで達ちゃんを連れて行かなかったら、大変な事になると書いてあったのさ」
「ドロップキックか……」
達也たち三人の絆が固く強いものになっている事を意味する言葉だった。
「達ちゃん左に新井金毘羅神社の参道鳥居!」
「え? 新井金毘羅神社?」
「達ちゃん忘れたか? この前、茉梨子と三人で休憩したろう」
「もうそこなの?」
達也は怪訝な顔をしていた。とっさに太陽は腕時計を見た。
「速い! 達ちゃん、ペース落として」
太陽は走りやすい車道で凹凸がない事を良い事にして達也のペース管理を怠っていた。そのため、達也は何時ものペースで走っているつもりで次第にオーバーペースになり、達也がイメージしている風景と実際の風景に誤差が生じていたのだ。達也の距離感が狂ってきていた。
「どのくらい速いの?」
達也は何時ものイメージに戻そうと必死だった。
「スタートから新井金毘羅神社まで約一キロだから一キロ五分を切ってる。一分以上速すぎだ」
太陽は慌てて言った。
「一回止まる?」
達也の提案に太陽は迷っていた。止まってしまったら余計辛くなる。
「どうしよう。茉梨子なら何と言うだろう?」
太陽は必死に考えた。
「いや、止まらずに行こう。周りの風景を言い続けるからその風景に達ちゃんのイメージを合わせて。でも、ペースは落として。もっとゆっくり」
「右側、たばこ屋とアイスクリームフィフティーンワン。不動産屋の看板。左側はやがて覚仙寺入口。その次、土産物おおみ屋」
「分かって来た」
達也が記憶しイメージした風景と、太陽が言い続ける風景が次第に一致し始めて来た。しかし、走りやすいアスファルトは大敵だった。
達也のイメージが戻り始めると、また体は自然とスピードを上げてしまう。再度イメージの風景は狂い始まるのだ。この繰り返しに太陽は悩まされていた。
「達ちゃん! また速くなってる。ペース落として」
「分かってる。でも調子が良いんだ」
「駄目だ! このままのペースで行くと、最後の昇り坂とその先の下りで息が上がる」
「行けそうな気がするんだけど」
「駄目、達ちゃん俺の言う事を聞いてくれ。ペースを落とせ!」
「分かった」
達也はそう言ったが一キロを六分のペースには落ちなかった。もうすぐ四.五キロ地点の曲がり角に差し掛かろうとしていた。右側に小さくムーンバックスの緑の看板が太陽に見えて来た。時計を見るとスタートから十五分。速すぎだった。でも、もしこのまま行ければ、雅人なら信じられない記録でゴール出来るかもしれない。少しの驕りが太陽にも宿り始めていた。
「達ちゃん!」
太陽が左の曲がり角を伝えようとした時だった。
「もう直ぐ左に曲がるんだね」
達也が言った。達也のイメージが戻ったのだと太陽は安堵した。
「達ちゃんには珈琲の香りがするの?」
太陽には感じない珈琲の香りを達也は嗅ぎ取り、イメージの風景を修正したのだと太陽は思ったのだ。
「違う。珈琲じゃない! 牛丼の香りがする。戸沢家の香りがするの」
達也は訳の分からない事を言い出した。
「達ちゃんどうした。ここは京都だよ!」
太陽は達也がイメージの修正を繰り返したために、長野の記憶と京都の風景を混同してしまったのかと思った。
「でも、あっちから牛丼の香りがするの!」
達也はそう言いながら左手で右方向を指差した。そこにはムーンバックスの看板が掲げられていた。しかし、昨日の練習と違う風景が太陽の目にも飛び込んで来た。看板下の歩道に腕組みをして仁王様の様に立つ男がいたのだ。横には大きな寸胴鍋がプロパンガスで温められており、法被を着た久美子が大きな団扇で鍋を扇いでいた。立ち上がる湯気が風に乗り、やがて太陽の鼻にもあの戸沢家の香りが漂って来た。
「達ちゃん! あの親仁さんがいる。腕組んで立ってるよ」
太陽はたまらなく嬉しくて仕方がなかった。
「親仁さんがいるの?」
「そうだ、これだ!」
太陽は突然叫んだ。
「達ちゃん! 京都のイメージはもう忘れよう。ここは、京都じゃない、長野だ! 俺たちの街上田だ! すぐそこに戸沢家がある。その交差点を左に曲がった後は一直線、一回坂を上って何時もの電車を下に見たら下る。そこはもう城址公園駅だ!」
「ここは僕たちの街?」
「そう、毎日走った俺たちの故郷だよ。だから達ちゃんの風景も修正して。ペースも何時もの練習に戻すんだ。出来るね」
太陽も目をつむって懐かしい香りを思いっきり吸い込んだ。
「戸沢家が見えた。何時もみたいにお客がいない、がらがらの店だ」
達也が叫んだ。
「そうか。がらがらか。もう直ぐ交差点、その角を左に曲がるよ!」
太陽は達也のペースに合わせながら後ろを見た。二位を並走する甲府農林高校と東部台千葉高等学校の選手が、二人の後方まで迫って来ていた。『角を曲がったら一気に来るな』太陽はそう覚悟した。
「達ちゃん後続が追い付いて来た。角を曲がったら追い越させるよ」
太陽が言うと達也は少し寂しそうに頷いた。
「悔しいと思うけれどこれは想定内だ! 俺たちは、駅伝を走っているのだから追い越されても雅人がいるよ」
「そうだったね。でも出来れば左に曲がって直線になるまで頑張りたい」
達也は歯を食いしばった。しかし、トップに上がろうと並走していた二校の選手は競い合いながら見る見る近づいて来た。
交差点に進入する寸前に太陽は、戸沢家の親仁へ黙礼をした。
その隙に太陽と親仁の間を一人の選手が横切った。大回りして抜きに入ったのは東部台千葉高校の選手だった。太陽の予測より早く相手は仕掛けて来た。二人を追い越す寸前に東部台千葉高校の選手が突然叫んだ。
「左側に注意しろ。危険だ、右に進路を取れ!」
その言葉に左後方に視線を向けた太陽の目には、内側の左から必死の形相で追い越しを掛けようとする甲府農林高校の選手が飛び込んできた。
「達ちゃん! もう一人来る。左、いや右に進路を取って追い越させるよ」
「分かった」
達也がセンターライン側に一歩踏み出した時だ。
「危ない!」
沿道の観客が叫んだ。次の瞬間達也の左肩を衝撃が襲った。よろけて右へ弾き飛ばされた達也と太陽は、道路のセンターラインまで転がった。甲府農林高校の選手が達也の左側を無理に追い越したために接触してしまったのが原因であった。東部台千葉に追いつこうと甲府農林の選手は最短距離をとったのだ。
弾き飛ばされた達也は、交差点を曲がった直後に動けなくなった。
つづく