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【小説】KIZUNAWA㉝         5区・襷リレーの危機

 優生はスタートを切った。三キロで一〇〇メートル差を増やしてやると思っていた。練習通りに走れば容易い事だったが、優生にとって気がかりなのは達也との襷リレーだ。目が不自由な達也に安心して走ってもらうには、速やかな襷リレーをして「行けー!」と一言声を掛けてあげたいのだ。
 一キロは様子を見て走った。徐々にスピードを上げて後続との差を広げて行った。沿道には多くの駅伝ファンが押しかけて、ボランティアの整理委員がコースに出ない様にと声を大にして注意している。視覚障がい者の挑戦が話題になり中継地点近くは、予想以上の人に溢れていたのである。
優生はその光景を左に見ながら走り続けた。しかし、優生はある不安を抱き始めた。沿道の観客の多さのために、目印にしていた一〇〇メートル手前の郵便ポストが確認出来ないのでは? と思い始めていたのだ。昨日の予行練習の時に「ポストが見えないといけないから」と言って、茉梨子が道路にロウセキで書いてくれた一〇〇という文字も整理委員の雑踏で踏み消されているかもしれない、不安はどんどん大きくなって行った。もしも「アー!」を叫び出すタイミングがずれると、達也の距離感も変わってしまう。
 優生の視界に達也たちが入って来た。もうすぐ一〇〇メートル手前になる。不安は的中してしまった。ポストが確認出来ない。優生は左端によって走ったが、沿道の観客に押される様に整理委員が車道に押し出されていて茉梨子の書いた文字も確認出来る状態ではなかった。
「これなら道路に線を引いておけばよかった。どうしよう?」
優生がそう思った時だった。
「優生! ここだ! ここが一〇〇メートル手前だ!」
必死に叫ぶ兄の声が聞こえて来た。優生が声のする方を見ると、兄の康生(こうせい)が黄色い布を広げて叫んでいた。
 
  優生の一歳年上の兄、康生はサッカー部に所属していた。
「駅伝部の応援に行くのだったら、弟が走るコースで目印になるものをもって支援したい」
母に相談した。
「それなら黄色いハンカチでしょう」
と母は言って、黄色い布を買って来ると、ミシンでハンカチを縫い上げた。ただ、それはハンカチと言うより風呂敷に近い大きさで、真ん中に大きく一〇〇と算用数字でアイロンプリントが貼られた物だった。
「どうして黄色いハンカチなの?」
康生が聞くと母は片目をつむって「高倉健よ!」と言った。母が若い頃、高倉健主演の『幸せの黄色いハンカチ』という映画があったそうだ。大切な人を守るために人を殺めてしまった主人公が、網走刑務所を出所、ふとした事で知り合った若い男女の旅人と故郷の夕張まで旅をする物語だそうだ。現代っ子の康生にとっては「何処が面白いの?」としか思えなかった。
「刑務所を出所した時に、夕張に住む奥さんへ手紙を書くのよ。もしも、今でも自分を待っていてくれて許してもらえるのなら、庭に黄色いハンカチを干しておいてほしいとね。不安を抱えながら夕張に帰った彼を迎えたのが庭いっぱいに掲げられた黄色いハンカチだったのよ。ラストシーンが最高なのよね。健さんは」
母の言葉に康生は、無料配信アプリでその映画をダウンロードすると夜中にこっそり見てみた。ラストシーンで庭いっぱいに掲げられた黄色いハンカチが感動的に表現されていた。康生は優生にこの感動が届けば良いと思いながら朝早くから茉梨子が書いた一〇〇の文字を跨ぐ様に陣取っていたのだった。
 
「兄貴!」
康生が掲げた黄色い風呂敷がどんどん近づいて来る。優生は横目でそれを見つめながら「ありがとう」と心で何度も叫んでいた。
 
黄色い風呂敷と優生の体が重なった。その瞬間! 
「アッァー!」
優生は雑踏に負けない大声で叫び始め、「一・二・三・四・五秒」と心の中で時を刻み始めた。
 
「達ちゃん、来るぞ!」
太陽は優生の姿を確認すると達也の手を握り締めた。そして、テザーを五〇センチメートルの長さに伸ばし、テザーから手を離す。
「聞こえてる。いよいよ本番だね」
達也は進行方向を向くと左手を腰に当てて立つ。達也の耳に優生の声がさらに大きく聞こえて来た。
「八〇、五〇、二〇m……」
達也は優生の声に集中し距離をイメージ、五メートルを感じ取るとゆっくり走り出す。
「走れ、達ちゃん! 約束の場所まで、俺たちの襷を頼む!」
優生の声がマックスになり、吐く息の波紋が達也に伝わって来た時、達也の手にずしりとした重い力が押し付けられた。
 達也は掌全体でその思いを受け止めた。
「行くぞ!」
太陽は達也が襷を掴むのを確認すると達也の動きに合わせて回り込み達也の右側に吐くと力強く叫んだ。そして、達也が襷を胸に掛けるのを確認する。達也はゆっくりと走りながら右腕を横に広げテザーを垂らした。
「掴んだ!」
太陽は叫びテザーを掴み叫ぶ。そして、それを一〇センチメートルまで縮めて、何時もの様に声を掛けて走り出した。二人は一人になった。
練習と同じペースを刻みながら二人は順調にスタートを切った。
 
達也の胸に北高仲間の思いが掛けられた。
                              
つづく

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