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【小説】KIZUNAWA㉓        都大路その3 手紙

 翌朝ホテルのロビーには中田が待っていた。
「おはようございます。今日のご予定は?」
中田が茉梨子に聞いた。
「スタート地点で襷リレーの練習をして、午前と午後一本ずつコースを走ります」
「昼食は何方で取られますか?」
「僕、新井金毘羅神社で食べたい!」
「達ちゃん我がまま言わないで」
茉梨子が達也の頭を突っついた。
「かまいませんよ」
中田は笑っていた。
 中田の運転するワゴン車で第五中継地点に降りた三人は、一旦ホテルに戻ると言う中田を見送ると襷リレーの練習を始めた。一〇〇メートル手前は中田が図ってくれた。丁度手ごろな看板が目印になってくれていたので茉梨子が優生の代わりを務めアーと叫びながら達也にリレーする練習を何度も繰り返し午前のラストは一気に走った。第六中継地点には既に中田が待っていてくれて自転車ごと三人を新井金毘羅神社へ送ってくれた。
「ひとつ宜しいですか?」
中田はハンドルを握りながら声を掛けて来た。
「何ですか?」
茉梨子が答える。
「私も昼食をご一緒させて頂けませんか?」
「何だ、そんな事ですか。良いに決まっていますよ、中田さんがかしこまるから私たち何かご迷惑をお掛けしてしまったかと思いましたよ」
「西之園さんにもう少しお話をお聞きしたくて」
「お孫さんの事ですね」
達也が聞いた。
「はい」
少し暗い返事が返って来た。
 
 四人は駐車場から鳥居をくぐり芝生が一面に張り巡らせた広場のテーブルが接続されたベンチに陣取った。長野県出身の小林シェフが作ってくれたランチ弁当は野沢菜など長野県の食材で作られており、味付けも京都に似合わず濃い味であった。一流ホテルのおもてなしを感じる逸品だ。
「このおにぎり美味しいね」
達也は嬉しそうだった。
「やはり長野では『おにぎり』と言うのですね京都では概ね『おむすび』と言いますよ」
「長野では握り飯だろう」
太陽が言うと
「そんな下品な言い方はお前だけ」
茉梨子が切り返し笑いに変わった。
「お孫さんは盲学校には通っているのですよね?」
折を見て達也が口火を切った。
「籍を置いているだけで殆ど学校には行っていません。と言うより家から出ません」
中田は寂しそうであった。
「点字とか難しいからなー?」
太陽が言う。
「違うと思う」
達也が言った。
「じゃあどうして?」
「前にも言ったけれど、怖いからだと思う」
「でも達ちゃんはその怖さを乗り越えたじゃないの」
茉梨子が言う。
「もっと怖い先生がいた」
「吉本先生か」
「だって僕の部屋のドアを蹴破って来て首根っこ掴まれて靴も履かせてくれないで学校まで引きずられたんだよ。怖かったよ」
達也は身震いをした。
「力のある男性なのですね」
と言う中田に対し
「女教師です」
太陽が普通に言った。
「お孫さんのお名前は何というのですか?」
「明日香です」
「僕、手紙を書きます。広江さん代筆してくれる?」
茉梨子は即座に了承したが
「俺が代筆してやるよ、茉梨子は忙しい身だから」
太陽が否定した。
「いやだよ」
達也も否定した。
「どうして?」
「字が汚いし、漢字間違えるから」
退部届の誤字話は、確実に口コミで拡散されていた。
「……柞山! レースが終わったら永遠の眠りに就いてもらう」
太陽の言葉は笑いの渦を巻き起こした。
「本当に皆さんは仲が良いのですね」
中田の顔から陰りが消えていた。
 
 昼食を済ませて一旦ホテルに戻り休息をとり、午後にもう一本コースを走る予定になっていたが、ホテルに戻るとロビーに見覚えのある顔を発見した。優生だ。
「斎藤、何かあったのか?」
太陽がびっくりして尋ねる。
「諏訪が坊主頭になった!」
「そうか、そいつは大事件だ! で五分刈りか? 二分か?」
太陽は飛び上がって驚いたが次の瞬間、怒りの声が辺りに響き渡ったのは言うまでもない。茉梨子の怒りだ。
「太陽君」
「はいよ」
「優生君」
「何でしょう?」
「大会前に馬鹿会話してんじゃ~ねーよ!」
空気が震えるほどの怒り声に達也は耳を押さえて座り込んだ。太陽も同様だ。優生は近くの柱に飛びつくと震えながらしがみ付いていた。魔女の降臨、いや鬼が乗り移ったかの様な怒りの声である。
「……」
「で、どうして前乗りして来たの?」
茉梨子は柱にしがみ付いて震えている優生の襟元を後ろから引っ張った。ビクリとすると優生は言った。
「かっ壁」
「それは壁ではなく柱だからね」
「そうではなく一〇〇メートルの壁が俺を襲って来るんだ。兎に角、西之園との練習をもっとやらないと不安が取り除けない。気付いたら新幹線に乗っていた」
「宮島先生には言って来たの?」
「……」
優生は柱に右手を付いて下を向き、首を振った。
「携帯は?」
「……慌てていたので忘れて来た」
「馬鹿! 今頃学校は大騒ぎでしょ」
「だろうな、諏訪が坊主頭だからな」
太陽は落ち着いて言った。
「そっちじゃない!」
茉梨子は真剣に怒っていた。そして慌てて宮島に電話を掛ける。
「先生! お話が……」
「広江さん今ちょっと手が離せなくて折り返します」
案の定、大騒ぎになっていた。
「待って先生! 馬鹿優生の事ですよね」
茉梨子は優生が京都にいる事とその事情を説明した。
「そー、そうですか。安心しました。ホテルには私からも電話いたしますが、君からも丁寧に謝っておいて下さい」
宮島のホッとした感じが声に出ていた。茉梨子は電話を切ると、優生の頭を撫でて
「お前も坊主頭にして来い!」
と言うなりフロントに走って行った。フロントでは女将と桜井が何かを話していた。
「お話し中失礼いたします。女将さんにお詫びを申し上げなければならない事が出来まして」
茉梨子の言葉に女将は首を傾げたが、茉梨子の説明を聞くと急に笑い出し言った。
「食事の御用意を一人分追加しますね」
茉梨子は優生を手招きし呼びつけると
「こんなにお忙しい時期に、ご親切を頂いているにも拘らずに我がまま言って、本当にすみません」
茉梨子は丁寧に謝罪し優生にも頭を下げさせた。
「お名前は?」
優しい顔で優生に尋ねる。
「斎藤、斎藤優生です。よろしくお願いします」
「優生君は何か食べられないものはありますか?」
「……僕」
優生が言い掛けた途端
「何でも食べます。いえ、食べさせます」
茉梨子が代わりに答える。本来ならピーマンが苦手と言いたかった優生だったが負い目のある彼は黙った。
「ツインのベッドが空いておりますのでお部屋は私と一緒で構いませんね」
桜井が言う。
「よ、よろしくお願いします」
そう言った優生であったが、この時の優生には桜井のイビキが強烈なものである事を知る余地もなかった。
 
 午後の練習は優生と達也の襷リレーを中心に行った。優生は達也との中継地の一〇〇メートル手前に建つ郵便ポストを目印にして何度も「アー」を繰り返した。
「少しは気が楽になった?」
茉梨子が聞くと優生は軽く頷いた。
「少し高い位置で目印を見つけておく様にと仲長さんが言っていたけれどポストだけで大丈夫か?」
太陽は心配する。
「大丈夫だよ、ポストの上の方の風景も覚えたからね」
優生はそう言ったが、大会当日にこの言葉が完全に否定される事を、この時の彼は知らなかった。
「もうすぐ日が暮れるからラスト一本リレーしてそのまま五キロ走って終わりにしよう」
茉梨子の提案で四人はそのまま走り練習を終わらせた。
 
「広江さんこの後に、手紙の代筆をお願いしたいのだけれど良い?」
達也が茉梨子に頼む。
「もちろんよ」
笑顔で答えた時、茉梨子のスマホが突然震えた。
「はい! 広江です」
「〽金毘羅船々追風(おいて)に帆掛けてシュラシュシュシュ」
「仲長さん? 何か賑やかですね」
「いやー、楽しい世界です」
「何処にいらっしゃるのですか?」
「貴方たちは知らなくて良い世界ですよ。ところで今日の練習に何か問題はありませんでしたか?」
「選手が一人、前乗りして来ちゃったくらいです」
「一人、前乗りですか?」
「はい、五区を走る斎藤優生です」
「五区の斎藤君ですか、では明日は襷リレーの練習を中心に行いましょう」
「分かりました」
茉梨子が答えるとまたあのBGMが響いて来る。
「〽金毘羅船々、そうそう、新井金毘羅宮の参道なら広くて長い。リレーの練習には持って来いですね。ねー! ナーさんまだ終わらないの?」
あまえる女性の声が聞こえて来た。
「では何かありましたら、電話……」
プーという音がして通話が切れた。
 
桜井は自分の部屋に戻るために静かにドアを閉めた。真剣に手紙の内容を精査する達也たちに気を使っての事だった。達也が考えて喋った言葉を、茉梨子が聞き取り筆記をしていたのである。
「そこは恐怖心より怖さとかにした方が良いんじゃない」
茉梨子が言う。
「そうか、相手は小学生だものね」
「そうだよ、達ちゃんは頭良すぎよ。高校生でも付いて行けない文章だよ」
茉梨子の脳裏には太陽の姿があった。やがて、茉梨子の綺麗な字で手紙は完成し封筒には明日香さんへと記された。
「明日、中田さんに渡すね。達ちゃんはもう寝な」
母親の様に包み込む茉梨子の横で高いびきなのは、太陽であった。 
 翌朝、ロビーで中田が待っていた。
「おはようございます」
「おはようございます。今日もお世話になります」茉梨子が丁寧にあいさつをする。
「本日はどちらで練習をなさいますか?」
「新井金毘羅宮でリレーの練習をして、一本だけ五キロ走る予定です」
「午後はお仲間も合流なさると聞いていますが、昼食はご一緒に取られますか?」
「よろしくお願いします。それと、これ明日香さんへ」
茉梨子は夕べ綴った手紙を中田に渡した。
「ありがとう存じます。西之園様にはお疲れのところ、余計なお手間をお掛けいたしました。本当にありがとう存じます」
中田は心から感謝していたが、達也は、首を振りながら両手も振って
「全然余計な事ではないですよ。僕は、視覚障がい者の先輩ですから」
笑っていた。
 
 金毘羅宮に到着すると藤咲が待っていた。
「おはようございます」
挨拶をする四人に
「おや! 本当に一人増えましたね」
藤咲は笑った。
「優生! ちゃんと挨拶しなさい」
保護者の様だ。
「斎藤ですお世話になります」
「引田サイクルで一度お会いしましたね。よろしく! 社務所には私から了解を取っておきましたが、帰る時に君たちからも挨拶をして下さい」
「ぬかりなく」
太陽がお道化て言ったが、実際挨拶を仕切ったのは茉梨子である事は言うまでもない。
 襷リレーは順調に上達していた。一〇時を回る頃、藤咲は差し入れのドーナツとスポーツドリンクを置いて
「練習の遣り過ぎは禁物ですよ」
言い仕事に戻った。
「優生も奥にあるトンネル潜ってくれば?」
茉梨子がドーナツを頬張りながら薦めると
「西之園を連れて来てくれただけで、神様の助けはもう充分だよ。後は自分達の力でレースに挑むだけ」
優生は空を見上げ達也の手を摩りながら呟いた。
「偉いね。それじゃあ、あと五回襷リレーの練習をして走って帰ろう」
茉梨子が立ち上がると他の三人も立ち上がる。太陽は達也の右手にテザーを持たせて
「良しゃあ、やろう!」
と達也の背中を軽く叩いた。
「そうだ、優生に頼みがある」
太陽が突然言い出した。
「なんだい?」
「ムーンバックスを左に曲がる辺りで俺たちを追い越してくれないか」
「コーヒー店のムーンバックスか?」
「そこを曲がる辺り前後で、達ちゃんは後続に追いつかれる想定で、追い越させのタイミングを体験したいんだ。特に俺が、なんだけれどね」
陸上に不慣れな太陽は、追い越させのルールが分かっていなかった。優生に追い越してもらうタイミングで達也を上手く誘導する言葉を捜したかったのだ。
「曲がり角で良いのか?」
「それで良い。直進で仕掛けられたら、徐々に左に避ければ良いと思うけれど、角で仕掛けられた時にどうすれば良いかを体験したい」
「分かった。通常陸上は右から追い越すのがマナーだから俺が大回りして追い越すよ。タイミングは太陽が図ってくれな」
「頼む」
 
 達也と優生の襷リレーはスムーズに展開していた。最後のリレーを練習し、達也と太陽はコースの左側から本線に入ると慣れたコースをスムーズに走り出した。順調に練習は進行した。やがて達也の臭覚がコーヒーの香りを嗅ぎ取って
「もう直ぐ左に曲がるんだね」
と言った。達也たちが左に曲がろうとした瞬間、優生が追い越しを掛けて来た。
「達ちゃん! 後続に追いつかれた。左に寄って! ゆっくりで良いよ」
太陽が叫ぶ。達也は軽く頷くとゆっくり左端に寄り優生を追い越させた。
「オーケー! 直線でこれが来たらスピードは落とさずに左に寄れば良い」
「感覚が掴めた気がする」
達也はアスリートの体に成りつつあった。軽快に坂を上る。上りきった所で「新幹線が来るよ」
突然達也が言った。
「皆乗っているのかな?」
四人は頂上で立ち止まり下を走る新幹線に手を振った。
「乗って要るかどうかは分からないけれど、皆がホテルに着いたら優生は一番に自首しないとね」
茉梨子が笑う。
「かなり叱られるよな」
優生は憂鬱だった。
「まあ覚悟しておいた方が良いな」
太陽も笑った。坂を下ると中田が待っていた。
「お疲れ様です。駅伝部の皆さんはもうお着きですよ」
「もう着いたんだ。意外に早かったね」
達也は嬉しそうに言った。
「優生! 自首の用意をしておきな」
茉梨子が茶化したので、優生を更に憂鬱が襲ってきた。和やかな会話の中、達也だけが首を傾けていた。
「達ちゃんどうかした?」太陽が心配すると達也は「やっぱり横川君たちのバイク音がする」
呟いた。
                               つづく

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