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【小説】KIZUNAWA㉘ それぞれのスタジアム
クリスマスを目前に控えた祝日。京都の空に日が昇り始めた。やがて空は透き通る様に青く澄んだ朝を迎えていた。
上田北高等学校吹奏楽部を乗せた大型バスは、名神自動車道を東に向かって走っていた。吹奏楽部は前日に大阪で行われた全国高等学校吹奏楽コンクールで銅賞に輝き、上田までの帰路に着いていたのである。顧問教諭の荻原賢治(おぎわらけんじ)は、流れる車窓を見ていたが急に立ち上がると運転手に言葉を掛けた。運転手は軽く頷くと左方向へウインカーを出し桂川パーキングエリアに進路をとった。
「ここで一五分の休憩をします。上田までは長距離ですからトイレを済ませておいて下さい。それと、先生はこのパーキングで失礼させて頂きます。学校までは副顧問の鈴木恵美子(すずきえみこ)先生が責任を持って引率いたしますので私の我がままを許して下さい」
荻原は生徒を前に謝罪した。
「先生!」
手を上げたのは、部長でコンサートマスターの吉里博文(よしざとひろふみ)だ。
「吉里君何でしょう?」
「先生はここでバスを降りて、駅伝部の応援に行こうとお考えですね」
「お察しの通りです。私は鎌田君の担任としてどうしても彼の繋いだ絆の行方を見届ける義務があると考えています。吹奏楽部の皆さんには申し訳ないと思っていますが理解して頂きたい」
荻原は航平のクラス担任でもあったのである。
「理解はしています。理解したうえでお願いがあります」
「何でしょう?」
「僕たちも連れて行って頂けませんか?」
「しかし、大会終了後に京都を出ると、学校には深夜の到着になってしまいます」
「先生! 私たちはコンクールの練習のために、駅伝部の支援が出来ませんでした。間に合うのであればスタジアムで応援したいです」
女子部員の言葉が荻原の心を動かしていた。
「先生! お願いします」
部員全員が立ち上がっていた。
荻原は生徒たちの熱意に押され、校長に電話を入れた。荻原の電話の受け答えに聞き耳を立てていた運転手は、会社に連絡を入れると到着時間の変更を告げ、京都松菱スタジアムに隣接する大型車駐車場の確保を依頼し、バスは急遽予定を変更したのである。
「荻原先生、宜しいのでしょうか?」
鈴木が心配していた。心配の理由は駅伝の応援で吹奏楽が演奏する事など、今まで見た事がないからである。
「校長の了解は頂きました。保護者会には学校から到着時間の変更を連絡して頂けるそうです。応援出来るか否かは行ってみなければ分かりませんが、私たちも駅伝部を見習いましょう」
バスは京都南インターチェンジで名神高速道路に別れを告げた。
明日香は、両親に手を引かれ玄関のドアを開いた。中田が運転する自家用車は家族を乗せてスタジアムに向かい走り出していた。明日香は無言で小刻みに震えている。母親がそっとその肩を抱き寄せて言った。
「怖いね。でも何時も一緒にいるからね」
優しい言葉も、暖かい手のぬくもりも、その恐怖心を取り去る事は出来ないでいたが、明日香は玄関を出た瞬間に一度だけ空を見上げた。体で日の光を感じていたのだ。小さな手にはお守りの様に一通の手紙が握られていた。中田はスタジアム近くの駐車場に車を止めると言った。
「明日香! 冒険の始まりだ」
明日香は小さく頷くものの、震えは止まらずにシートを離れる勇気も力もなく、ただ殻に閉じ籠り動けない。
「父さんが負ぶってあげるから行こう」
見兼ねた父親が言ったが、中田はそれを制止し
「明日香! 一歩で良いから自分の足で踏みだしてごらん」
「そうよ、勇気を出して明日香! 家族皆が貴女を守るからね。一人じゃないからね」
母は強い。
明日香は母親に手を引かれスタジアムの駐車場に歩を踏み出した。
「偉いぞ、明日香! 凄いじゃないか」
中田の歓喜は、まるでひいきの野球チームが優勝したかのようであった。
一歩、また一歩、中田家の冒険はスタジアムの入口に向かって動き出した時だった。
「お手伝い出来る事はありますか?」
大きな楽器を抱えた集団の中の一人が声を掛けて来た。
「ありがとうございます。でも自分で……」
中田がその少年に応えようとしたが
「自分の足で歩くのですね。僕の友達も自分の力で歩いていますよ」
「スタジアムまでで良いのです。この子にとっては大冒険なのです」
「僕たちもスタジアムに行くので、ご一緒しましょう」
その集団は、中田家の人々を護る様に取り囲み明日香の歩速に合わせて歩き出した。
初めて明日香が触れた他人の優しさだった。
(パー、プープー)
スタジアムの一角に明日香は家族に囲まれて座った。隣では親切に声を掛けてくれた高校生の集団が陣を取り、それぞれの楽器を取り出すと音調整を始めていた。
「優しい音色だね」
明日香が家を出て初めて発した言葉だ。
「吹奏楽だね。何処の高校かしら、陸上では珍しいわね」
母親は客席の上段に掲げられた『上田北高等学校吹奏楽部』と記された横断幕に気が付かずに、明日香の手を取って囁いていた。
「明日香だって音楽が好きなのだから、今から頑張って何か楽器を習ってみる事だって出来るのだよ」
父親も明日香の手を取って言った。
京都松菱スタジアムは、満席に近いほどの観客に溢れていた。その中に、黒枠の写真を抱きかかえる夫婦がいた。写真の若者は、白い歯が輝く優しい笑顔の鎌田航平である。スタジアムの雑踏の中で静かに微笑んでいる。
陸上競技のスタジアム応援に吹奏楽団が陣を取る事はかつてなかった。しかし、横断幕を見つけた、京都府に住む長野県人会の駅伝ファンは続々とその周りに集まって来ていた。
「上田北高はキャプテンを突然喪って、不運だったが頑張ってもらいたいですな」
「長野県は毎年上位からおった事がないから今年こそは優勝してもらいたいですよ」
「ほんと楽しみですよ」
京都府にあってこの一部だけは長野の方言に包まれて和やかだ。中には故郷の訛りを懐かしんでそれを聞きに来たという人もいるようだった。
「さあ皆さん! 全国三位の演奏をスタジアムに響かせましょう」
荻原はタクトを握り締めて言ったが、慌てて駆け付けた大会役員に制止された。
「野球やサッカーと違って陸上の応援は鳴り物禁止ですから!」
「でも、そんな事は何処にも注意書きがはありませんが」
荻原は食い下がる。やる気満々の生徒たちは、それぞれ楽器の準備を整え終わっていたからだ。
「書いていなくても世間の常識なんです。上田北高の常識は、取敢えず納めて下さい。もうすぐスタートなんですからね。スターターが困るでしょうし、ピストルの音が選手に聞こえないと困りますからね。もう一度言いますよ。鳴り物禁止!」
大会役員の剣幕に荻原は仕方なくタクトを置くしかなかった。役員の言う事も理解で来たからである。
「皆さんは上田北高の生徒さんなのですか?」
中田は役員の怒鳴声から飛び出した学校名を聞いて思わず声を掛けた。
「はい! 長野県代表です。応援して頂けるとありがたいです」
声を掛けられた博文は笑顔で答えた。
「応援しますとも、応援しなかったらばちが当たる」
中田が言った言葉の意味をこの時の博文には理解する事が出来なかった。
つづく
次回いよいよスタート! 上田北高の運命は如何に、そして達也と太陽は?