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地の文の近代性、非近代性ー鴎外「興津弥五右衛門の遺書」から考える

 候文とは、「日本の中世から近代、昭和戦前期にかけて用いられた、日本語の文語体の一型式である。文末に丁寧の補助動詞「候」(そうろう、そろ、歴史的仮名遣いではサウラフ)を置く。」「鎌倉時代には文章としても書簡などに用いられ、文語文体として確立した。室町時代には謡曲(能)の語りの文体としても用いられた。この頃には、口語としては廃れたとされる(ただし「です」は「にて御座在り参らす」に由来するとされる)。 対照的に、文語としてはさらに普及し、江戸時代には、公文書・実用文などのほとんどをこの文体が占めた。」というのがwikipediaからの引用である。

 「候」の意味としては「〜〜でございます」「〜〜です」と言った感覚のものだ。wikipediaの記載では「文語として普及」と書かれているが、発話の主体は書き言葉というよりも話し言葉に近い。言えることは、「何かを認める時に用いたもの」であり、「何かを認める時に用いた」ということが「候文」の最大公約数的な要素づけだろう。

 認める行為というのは目的が色々あって、wikipediaで言うように、公文書・実用文にも用いられたろうし、井原西鶴の「万の文反古」で見られるように書簡や書簡体小説でも使用されたし、また、近世初頭の京の町衆の記録「本阿弥行状記」のような伝記にも使われたし、あるいは、遺書にも使用された。

 書簡や遺書に使用された、あるいはそういう場合に重宝されたのは、「候文」が一人称「私は〜〜だ」「私は〜〜だと思います」と言う文意と相性がいいと言うことがある。

 もう少し考えてみると、三人称の文章やその地の文、要するに語り、ナレーションの部分というのは、時代を遡るとメインストリームではないことがわかる。たとえば、歴史書の「大鏡」は「大宅世継(190歳)と夏山繁樹(180歳)という長命な二人の老人が雲林院の菩提講で語り合い、それを若侍が批評するという対話形式で書かれて」(wikipedia)おり、または論語も問答集だし、地の文で、誰ともわからない作者が何かを断定するということが、どの立場でものを言っているのかということも含め、難しかったのだと思う。要するに匿名たる語り手が成り立たなかったのだ。現在の小説の語り手は、ほぼ、名も知れぬ芥である。

「宇治拾遺物語」などの説話には候文が使われていることは少ないが、主観の助動詞や詠嘆の助動詞が文末に多用されている。芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」を見ればわかるが、俳句は一人称の詩歌だ。詠嘆や主観の助動詞が文末につけば、もうそれはセリフとして立ち上がり、聞くものは語り手の姿をぼんやりと思い浮かべる。近代以前の日本語の使用の中で、匿名の語り手による地の文のあり方や三人称の語りはがどうなっていたのかは、まだあまり研究が進んでいないがとても面白いところで、滝沢馬琴と坪内逍遥と二葉亭四迷を研究するといいのだとうと思っている。二葉亭四迷の「浮雲」はその最初のチャレンジでもある。

 そういう筆致の時代に、「候文」は一人称と親和性が高く、近代的な自我など全く知らない日本人が独白する時に使った。候文には、誰でもない何でもない匿名の存在が物事を語りうる包容力があったのだ。近代的な自我の確立を待たずして「独白」が成り立つのか、これが「万の文反古」と「沖津弥五右衛門の遺書」に共通した論点といっていいのではないだろうか。

なんでそんなことを言うかといえば、鴎外が選んだ遺書の書き手は、天和年間、すなわち、「好色一代男」が世に出た頃に青年期を迎えているからだ。書いているのは明治の日本を生きた人物ではあるけれども。


 現在、小説教室で、地の文で作者の意見を書くのは稚拙と見られる。

これはいわゆる「窓の話」だ。読者は窓の外の世界を見たいのであって、窓枠を見たいのではないと言う話のことだ。エンターテインメント性の高い映画ほど、ストーリー展開に没入することができる。しかし監督の創造性独自性が強く表現されていると、「この監督さんの考え方」に観客が付き合うことになって、気が合う人ならいいがそうでないと苦痛でしかない。絵画で、写実の風景画は素直に見ていられるが、抽象絵画はつまらないと言うのと同じである。窓枠=映画監督や作者は存在を消して欲しい、と言うのが今日のストーリーテリングの基本である。それが古代や中世は、文章や口承文芸というものが宗教活動と密接だったために、神様や牧師様や高僧の言葉を鑑賞者が積極的に欲した、ということがある。だから、近世社会になって、版本が流通し物語やコンテンツが消費されるようになっても、説話ごとの評語が残ったし、語り手が物語全体を総括して教訓を提示したのだ。

だから、説話の地の文は、いつも批評的で何かしら意見する主体である。要するに、地の文が読者に向けての発話(教訓たれ)になっている。それは、往生要集が高僧の手になるものであることからも、物言いたい主体であることがわかる。説話はその多言な語り手のために、随筆のようですらある。吉田兼好が何かしらの故事や事件を伝聞したら、徒然草と説話はそう距離がない。


 森鴎外の「興津弥五右衛門の遺書」は、執筆の眼目が乃木希典の殉職に触発された、「進んで死ぬこと」の武家的な精神性と、それとは逆説的な関係の、国家発展と自己実現がシンクロしていた時代の忠誠心と自我の対峙のことだったと思う。

 私が注目しているのは「候文」なので鴎外の眼目とは直接には関係がない。乃木の殉職の報に触れて、鴎外は原稿用紙80枚強のこの文章を、一晩のうちに一気呵成に書いたという。なぜそれができたか。もし、2時間でも3時間でも長電話をしてそれをテープ起こししたら、簡単に原稿用紙80枚を数えるはずだ。会話文だからこそスラスラと80枚書くことができたのだ。それを支えたのが「候文」である。まさに切腹に至る自身の考えと経緯を、独白し説明するものだ。

「候文」は、個人の甘ったれた考えや社会考察、後悔、願望を吐露できる。前近代の人間でもそれをすることができる唯一の文体だ。だからこそ、17世紀前半の日本の文筆家であった井原西鶴も、書簡体小説という形をとって甘ったれた個人の心情吐露をすることができた。しかしこの心情吐露は、漱石の「こころ」の遺書とは完全に違う。「こころ」の「先生」の自殺の理由も、甘ったれた個人の後悔といえば言える(ここにも乃木の殉職が絡んでいて、それは前述の通り、人間の生き死にの問題と、国家に自己実現をおもねる精神形成や自己実現のあり方の論点がある)。しかし、西鶴の描く個人の甘ったれた心情吐露は、「万の文反古」の各章段の最後に、「これを見るに」や「これを思うに」などといった説話的な評語があることを思えば、語り手の西鶴の自己認識は、西洋列強に対峙する国家に準えて存在する個人ではなく、自身を近所の住職にでも模した、中世説話の地の文の話者を演じているというものだった。だから、「万の文反古」の評文評語は添えられているだけの大きな意味がない。西鶴が執筆でやりたかった本願は、それまでずっと高級で触れることができなかった古典文学や中国の故事、遊郭の逸話を遊ぶことだった。また、談林俳諧で培った描写力を、あたかも絵師の技量のように、周りの人間に披露することだった。


 


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