竹腰道鎮・尚光父子と正信
「長良川の戦い」で先陣を名乗り出て、斉藤山城守利政入道道三に立ち向かったのは、斉藤道三の重臣であった竹腰摂津守重直入道道鎮である。
大原綱高┬竹腰七郎重綱─摂津守重直(道鎮)
└尚綱(大柿城)=重直┬成吉尚光(柳津城)─尚隆(竹鼻城)
└重時─重昌─正信
竹腰氏は、宇多源氏佐々木氏流大原氏の分かれで、大原綱高の子・重綱が、尾張国中島郡竹腰村(愛知県稲沢市竹腰西町)に住して「竹腰七郎重綱」と称したことに始まるという。
「長良川の戦い」で先陣を名乗り出て討ち死にした竹腰重綱の子・竹腰重直(出家して道鎮、道陳、道塵)は、大柿城を築いた叔父・尚綱の養子となり、その子・竹腰尚光(柳津城主)も斉藤氏に仕えた。
●竹腰重直(?-1556)
竹腰摂津守重直は、土岐・斉藤道三の重臣であり、大柿城(岐阜県大垣市郭町)の城主。斉藤道三の引退後は斎藤高政に仕え、「長良川の戦い」で討ち死にした。
●成吉尚光(?-?)
羽栗郡の柳津城(岐阜県岐阜市柳津町本郷)の城主。
父・竹腰摂津守重直の死後、斉藤高政に仕えた。「西美濃三人衆」に不破光治と成吉摂津守尚光を加えて「西美濃五人衆」と称する。
斉藤高政が亡くなり、斉藤竜興の代になると、次々と家臣たちは織田家に寝返ったが、成吉摂津守尚光は、最後まで斉藤家に忠誠を尽くし、斉藤家の滅亡後は農民になったという。
柳津城の現地案内板には「竹腰摂津守重直の叔父」とあるが、「竹腰摂津守重直の子」であろう。
斉藤家没落後の天正16年(1588年)、徳川家康に召し抱えられた竹腰正信(1591-1645。竹腰重直のひ孫)は、美濃今尾3万石を領し、(尾張藩初代藩主・徳川義直とは同母兄弟なので)子孫は代々、尾張徳川氏の家老を勤め、明治維新後は子爵になった。
竹腰正信の竹腰家は金森氏の分家で、竹腰重綱を始祖とする竹腰道鎮・尚光父子の竹腰家とは無関係であり、竹腰正信の父は身分の低い足軽であったので、竹腰正信を竹腰道鎮・尚光父子の系図に吊って「竹腰道鎮のひ孫」とし、徳川義直の兄弟に相応しい身分に変えたとする説もある。
※【参考系図】竹腰重綱-重吉-重時-正時-正信
日本人の名字の80%は地名だという。
地図でAという地名を見つけると、
「ここがA氏の本貫地(「名字の地」とも)か」
と妄想してしまう。
可児市瀬田に、「長山」とか「城山」と呼ばれる山があり、
「ここに明智氏の居城・長山城があった」
という。
城があったことの証拠に、山麓に「大屋敷」「東屋敷」「西屋敷」という地名がある。(そういえば、多羅へ行った時、「高木宗家屋敷」「東高木家屋敷」「西高木家屋敷」がくっついてあったなぁ。)
近くに「竹の越」という地名があるので、山麓の屋敷は「竹腰屋敷」だと妄想してしまう。すると、明智光秀は、明智光綱の子ではなく、竹腰尚綱の子かと思えてくるが、そもそも、瀬田の長山城は明智城ではないと思われる。