剣豪将軍・足利義輝の最期「永禄の変」
永禄8年(1565年)5月19日、塚原卜伝から奥義「一之太刀」を授かった「剣豪将軍」足利義輝の最期は、数珠丸恒次以外の「天下五剣」など、多くの名刀を抜いて畳に刺しておき、刃こぼれすると他の名刀に持ち替えて戦ったイメージが強いです。
『足利季世記』によれば、「若江三人衆」(三好義継が若江城主であった時の3家老。池田丹後守教正、多羅尾右近(多羅尾綱知)、野間左橘兵衛(左吉)長前)の筆頭・池田丹後守教正(通称「池田シメアン丹後」)の子が、戸の陰に隠れていて、足利義輝の足を槍で薙いで足利義輝を倒し、障子を上からかぶせて、障子越しに槍で刺して殺したという。足利義輝の首は、火が迫ってきたので取れなかったという。また、この時、障子の骨で眼を突いて盲目と成り、「三好検校」と名乗ったという。
史料・『足利季世記』(巻6)「光源院殿様御最後の事」
公方様、御前に利剱を数多(あまた)立てられ、度々取り替へて切り崩させ給ふ御勢に恐怖して近付き申す者無し。御太刀を抛(な)げて諸卒にとらしむる御体にて、重ねて御手にかゝる敵、数輩也。さすが武将の御器量こそ勇々しけれど、誉奉る声、滔滔たり。然るに三好方池田丹後守が子、小賢しき輩にて、戸の脇に隠れて御足を薙ぎてければ、転び給ふ上に障子を倒し掛け奉り、上より槍にて突き奉る。其の時、奥より火をかけ、燃へ出でければ、御首をば給はず。御年30歳と聞こえし。御供の輩31人打ち死に也。不思儀なり。公方を奉打ちし池田が子、障子を上に掩(おお)ひ奉るとて眼を突き、其より目、痛みて終に亡目に成り、座頭と成りて、三好検校とて京に居りけるを、諸人、憎みけると聞こえし。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348/122
史料・『続応仁後記』(巻第8)「室町御所合戦大樹御最期事」
寄手は多勢。御所は無勢。九牛の一毛。対用すべき様、無ければ、公方家、頓にて思召し切り、「御最期の御酒宴有べし」とて、宗徒の者共を御前え召され、御盃を下されけるに、細川宮内少輔隆是は、御前に侍ひける上臈女房の小袖を取て頭に被り、つと起て一差舞ひぬ。公方家、是を御覧じて、「最期の舞程有りて、一入出来たり」と御笑有りける。加様に皆人、悪びれたる色、無ければ、公方家、御快御気色にて御硯を取り寄せられ、上臈女房袖上に御辞世の御詠を書き留め給ふ。其の歌に云はく、
五月雨は露か涙か郭公 我が名をあげよ雲の上まで
其れより公方は、名刀数多、抜き置かれ、取り替へ、取り替へ、切て出され給ひけるに、「我、劣し」と御供して切て出る。
而々細川宮内少輔隆是 治部三郎左衛門藤通 其弟福阿弥 輪阿弥 武田左衛門佐信景 杉原兵庫助晴盛 沼田上野介 朝日新三郎 摂津糸千代丸十三歳 谷田民部丞 西河新右衛門 疋田弥四郎 松井新三郎 西面左馬允 同金阿弥 心臓主 荒川治部少輔 二宮弥三郎 寺司與次郎 進士主馬允 飯田左吉 木村小四郎 松原小三郎 粟津甚三郎 同仙千代 台阿弥 松阿弥 武阿弥 大弐等公方の御前に我も我もと立ち塞ぎて、究見の敵200余人討り取ちて、1人の残らず討ち死にせしむ。
公方の御手に掛かり給ひて切り伏せ給ふ者、幾等と云ふ和知らねば、敵徒、皆、懼れて近着く者の無し所に、敵方の池田丹後守が子・池田の某、小賢しき男にて、密かに忍び寄りて、戸びらの陰より、ふと立ち出で、鑓を以て公方家の御足を薙払へば、其のまま公方家、うつ伏せに転ばせ給ひけるを、多勢寄合て、上より障子を倒し掛け奉り、終に敢も鑓にて突き伏せ奉る。此時、奥より放たる猛火、一同に燃掛りける程に、御頸をば給はらず。御歳30歳。哀れと申すも恐れ有り。同き場所にて御供の討死の士、31人とぞ聞へし。(中略)角て御所をば焼き払ひて、寄手、各々帰陣しけるが、末世と云へ共、不思議也しは、公方家を撃ち奉りし池田の某し、其の時、倒し掛け奉りし障子の骨にて目を突きて、其れより目痛み、両眼盲に身を立べき様も無く、三好家の助力を得て座頭と成り、京都に住し。「三好検校」と云ひけるが、然も長生して、「あれこそ公方を伐り奉りし悪人也」と世上の人にあさめられしを近き此の人迄も皆、能く覚へて語り伝へぬ。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431170/430
2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、障子で目隠しされ、槍で突かれて殺されてますね。
史料ではどうなっているかというと・・・
史料・ルイス・フロイス『日本史』:足利義輝は、自ら薙刀で、後には刀で戦ったが、敵から胸に一槍、頭に一矢、顔に刀傷二つを加えられ、地面に打ち伏せたところを皆で一斉に襲いかかって殺害した。
「公方様は、とても武勇すぐれて、勇気ある人だったので、まず薙刀を手にして自ら戦い、数名の者に手傷を負わせ、他の者たちを殺した。人々はその技量の見事さに大いに驚いた。その後はより敵に接近するために薙刀を投げ捨て、刀を抜いて戦った。その奮戦ぶりはさながら勝利を目前にしている者にも劣らなかった。(中略)ついに敵は、公方様の胸に一槍、頭に一矢、顔には刀傷二つを加え、公方様が、地面に倒れ伏すや、皆で、公方様に襲い掛かり、所きらわず、打叩いて、完全に公方様を殺逆してはてた。」(ルイス・フロイス『日本史』(第65章))
「かの暴君たちの悪事はますます増長し、その心はいとも邪悪な望みをこれ以上延期することに堪えられなかったので、彼らは宮殿に火を掛けるよう命じた。公方様が自ら出ようとしたが、その母堂は彼に抱きつき(引き留め)た。彼女は我らを大いに歓迎した尊敬すべき老婦人であった。しかし、彼は火と必要に迫られ、家臣とともに出て戦い始めたが、腹に一槍と額に一矢、顔に二つの刀傷を受け、その場で果てた。」(1565年6月19日付ルイス・フロイス書簡)
史料・太田牛一『信長公記』(巻1)
「先公方光源院義照生害。(中略)御仰天成さられ候と雖も、是非無き御仕合也。数度切って出で、伐し崩し、余多に手負わせ、公方様御働き候ろ雖も、多勢に叶はず、御殿に火を懸け、終に御自害成さられ候」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/85
史料・『永禄記』
「さて御所様は御前に利剱を数多たてをかれ、度々取り替へて切り崩させ給ふ御勢に恐怖し、半ば向ひ奉るものなし。然ば御太刀を抛(な)げて諸卒にとらしむる御体にて、重ねて御手にかゝる者数輩也。」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879780/257
史料・山科言継『言継卿記』(5月19日条)
「戦ひ暫しと云々。奉公衆数多討死すと云々。大樹午の初点御生害と云々。説くべからず、説くべからず、先代未聞の義也」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1919209/259
史料・湯浅常山『常山紀談』(巻3)
「三好・松永、光源院義輝朝臣を弑する事」
「散々に防ぎ戦ひて、終に自害有ける」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018103/58
享年30(満29歳没)。
辞世は、
五月雨は露か涙か不如帰
我が名をあげよ雲の上まで
※『明智軍記』では、この「永禄の変」の時、明智光秀は、山代温泉で湯治していたとある。一方、小林正信は、「永禄の変」で自害したという奉公衆の進士晴舎・藤延父子の進士藤延は死んでおらず、改名して明智光秀と名乗った(明智光秀の「妹・妻木」は足利義輝の側室・小侍従、明智光慶は足利義輝の子・尾池義辰である)と主張している(小林正信『明智光秀の乱』里文出版)。