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#明智光秀
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第12回【「本能寺の変」に至る光秀と信長】
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第12回【「本能寺の変」に至る光秀と信長】
信長による足利義昭追放のあと、光秀の政治的立場はどうだったのでしょうか?信長家臣の中でも有能な光秀は「近畿管領」といわれる要職に就きまました。さらに、信長が京都で行った大規模な軍事パレード「京都御馬揃え」では、総指揮に抜擢されます。これは「お前が家臣の中で一番だ」と言われたに等しいことだったといいます。今回は、本能寺の
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第10回【光秀が義昭を見限ったのはいつか】
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第10回【光秀が義昭を見限ったのはいつか】
将軍義昭の家臣であり、信長の家臣でもあった光秀。信長の排除に動く義昭の前途に不安を抱くようになります。光秀が義昭の側近に宛てた手紙には「おいとまをいただきたい」と記されていましたが、年月日がなく、いつ書かれたものか定かではありません。今回は、義昭が信長を倒すために手を組んだ武田信玄の動きをひとつのヒントに、光秀がどの時
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第9回【信長が光秀を抜擢したのはなぜか】
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第9回【信長が光秀を抜擢したのはなぜか】
武士の身分としては上級でなかった光秀ですが、実力本位・能力主義を貫く「信長流人事」のもと、坂本城を与えられ「一国一城の主」となります。信長が光秀を第一の功労者と認めたのがあの比叡山延暦寺の焼き討ちだったといいます。今回は、近年発見された延暦寺攻めに関する新資料などをもとに、信長が光秀のどのような能力を評価していたのか、い
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第1回【明智光秀とは何者か】
3月31日からNHKカルチャーラジオ 歴史再発見 小和田哲男「明智光秀の実像に迫る」が始まりました。30分X14回=7時間の講義が無料で聞ける(NHKはTVは有料だけど、ラジオは無料)という素晴らしい企画です。
★カルチャーラジオ 歴史再発見 小和田哲男「明智光秀の実像に迫る」
https://www4.nhk.or.jp/P1927/
長所は、聞き逃しても、(第1回【明智光秀とは何者か】の場
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第2回【光秀の生年・出生地に諸説】
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第2回【光秀の生年・出生地に諸説】
明智光秀に関しての生年と出生地については、現在、いくつかの説が存在しています。生年に関しては1516年、1528年、1540年とする3説です。出生地については、現在の地名で岐阜県の可児市、恵那市、山県市、大垣市、そして滋賀県の多賀町とする5説があります。今回は、明智光秀の生年・出生地に関する諸説を解説すると共に最も有力な説とす
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第3回【各種「明智系図」と光秀】
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第3回【各種「明智系図」と光秀】
明智光秀の家系とはどのようなものだったのでしょうか。明智氏は、清和天皇から続く清和源氏系統の一つで、美濃を支配していた有力な守護、土岐氏から途中で分かれたと言われています。今回は、現存するいくつかの明智系図から、光秀に至るまでの家系をたどることにより光秀の父は一体誰なのか、おじの光安との関係についてなど系図を通してその生い立ちと
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第5回【越前時代の光秀を探る】
小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第5回【越前時代の光秀を探る】
斎藤道三と息子義龍が戦った「長良川の戦い」(1556年)で道三が討ち死に。道三側についていた光秀は、土岐氏・斎藤氏と姻戚関係にあった朝倉氏を頼って越前へ逃れました。光秀はすぐに朝倉氏に仕えたと伝えられてきましたが、新たな資料が出てきたことにより、その前に「空白の10年間」があることがわかりました。光秀はその間何をしていたのか?今回