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りょうけん的 読書感想文の様なモノ 『富士山』 平野啓一郎 著 241211
<敬>
巻末の著者プロフィールを読む。平野啓一郎は愛知県生まれの北九州市出身らしい。生まれと出身は違っていいんだ。で,それぞれどういう意味なんだ。生まれた場所は愛知県だったけどすぐに北九州に移って18歳高校卒業まではそこで過ごした,とか。ならばもし北九州へは0歳で移ったけど1歳になる前に今度は札幌へ移って18歳までは札幌で暮らしたら出身はどこになるんだ。出身とはなんなんだ。おい責任者 出て来てキチンと説明しろよ。笑う。
さて本書,とりあえず平野啓一郎の本は初めて読むのだろう くらいの感覚で手にとったのだが,まあそんな事もあるまいと我が読書記録を調べた。そうするとなんと既に彼の作品を僕は4冊も読んでいた。どの本を読んだかをここに書くのは無粋だし面倒くさいから書かない。でも読み始めたきっかけは その中の一冊が或る年に本屋大賞の候補になったからだろうと思しい。もっとも塵芥賞を獲っているのは周知の事実で でも僕はその塵芥には全く興味が無いのであった。笑う。
この本は実に無駄なページ使いをしている。良く言うと余裕を持って美しいページ構成の装丁をしている,などと云えるのかも知れないけど とにかく巻頭と巻末に実質どういう意味があるのだか分からないが「白紙」が沢山入っている。なにするんだ この白紙。メモでもすんのかぁ?笑う。 そして中身はもちろん僕には苦手意識のある「純文学」。小説作品の様な奇天烈で非現実的な事は何も起きない。が,現実そのものが奇怪なのだ。これぞジュンブン!
本書はページ数の割には外見的厚みが結構ある。全180ページ程度しかないのに厚みあるなぁ,と云う感じだ。普通180ページしかなければ厚みは本書の2/3程だろう。いや綿密に比べてみた訳では無いが今まで僕が沢山読んだ本達との直感的比較だ。ちなみに値段は1700円。本の見た目の厚みだけで考えると結構お買い得感のある値段だ。ましてやジュンブン系の作品の値段だとすると平野啓一郎はかなり売れっ子作家なのだろうと察することが出来る。
けれど 総ページ数からするとやや不満である。ページが少ないのに厚い原因はひとえに「使っている紙一枚が厚い」からであろう。なんとなくだが他の本よりも厚い気がする。気がするだけでなくて 実は読み始めの最初からページが少しめくりにくいなぁ とは思っていた。めくりにくいのは紙が厚いことの査証であろう。
ここでちょっと横道に逸れる。と云っても作家のお話なのだけれど。 題して『AIDXWEBが苦手な作家達』 AIやDXやWEBに関して 知らないのに知ったかぶりをするのは頂けないが,必要以上に そういうのはサッパリ分からなくて使えない,みたいな高齢者的主張をするのもどうしたものか と思う。一部の高齢作家さんの中には使えない事を一種のステイタスとしてエッセイなどを書いておられる例も見られる。まあ苦手なのは本当なのだろうけど 面白おかしくする為に誇張している部分もありそこはクスっと嗤ってしまうのです。
この本は5編の短編から成っている。僕は未だに短編と中編のボリューム的違いが良く分からないのだけれど,本作達は限りなく中編に近い短編というところか。但し中に一編だけ なんだか凄く短くて しかも何が面白んだかさっぱり分からない作品が混じっている。『手先が器用』。この作品の本書に占める役割は一体なんなのだろうか。この作品だけ掲載雑誌も違っている様子だし。まあもしかしたらこう云うのもジュンブンガク的お作法 だったりするのだろうか。笑う。
二話目『伊吹』に次の件り が有る。要旨は,タワ-マンションの26階に登場人物 伊吹達は住んでいるのだが,その部屋の90平米という広さで低層階の高級マンションは望むべくも無く…,と云う話なのだ。今時はタワーマンションがもっとも高級なマンションだろう。それを「低層階の高級マンション」だとー。端(はな)からなんか生活レベルの全く違う連中の話を読まされているのか,と少し腹が立った。が,そのまま読む。笑った。
その『伊吹』のラストシーンに次の記述がある。「…眉を顰(ひそ)めたが,体には既に幾重にも戦慄が走っていた。」 僕はこの記述に驚いた。流石はジュンブンだなぁと思った。ややもすると話にあまりエンタメ性がない代わりに こういう言葉の一々が なんだか感動的なのだ。旋律って幾重にも走るんだー。うんいいんじゃないかなぁー,って感じ。
ほぼ終盤166ページ。『ストレス・リレー』という本書ラスト作の短編にこういう記述がある “…子供の受験勉強の面倒を,急遽,看られなくなったと…“ ここで僕がハッとしたのはこの「看る」という漢字による表現。こういう使い方を初めてみた。慣例的には少し分かり易い様に語彙は変えて書くが 「子供の勉強を見る」 か あるいは 漢字は使わないで「子供の勉強をみる」と書くのだろう。
「看る」は意味からすると とても納得出来る使い方だと思ったので色々調べた。でもやはり「看る」を使うのが慣例的に正しい,という記述/記事は無かった。しかし僕は思った。これは「看る」を使うべきだ と。「看」と云う字はなんだか疾病関連にしか使われていない固定観念めいたものがあるが実はそんなことは無かった。うーむ やはり「ジュンブン作家」というのは只者では無いのだなぁ。次又読もうかしら。
同『ストレス・リレー』の内容でどうしても僕には理解できないことが有った。ここちょっと【ネタバレ注意】 最後半に唐突に登場する人物古賀惣介。顧客である化学メーカーからのクレーム処理の為に東京から京都へ移動した際に京都駅で時間が有ったので駅内のホテルロビーでコーヒーを飲む事にした。若い女性の店員から,満席なので待つ様に言われた。ところが方々に空席がある事を疑問に思った古賀は先ほどの店員にクレームをつけた。空いているが予約席だ告げられた古賀は腹が立った。
ここまでは良い。分からないのはその後場面と日付け変わってルーシーが賀茂川岸でウクレレの練習中。 前出の喫茶ロビーで古賀の相手をした若い店員が本短編の最初に出て来た英雄になるノルーシーなのだが最後にこうある。 「…ルーシーはアンカーであり,小島和久がうっかりシアトルから持ち帰ったあのストレスは,流れ流れて,ようやく彼女の中で…」シアトルから帰国した小島和久と古賀惣介の関係はどこでどう繋がるのだ。僕には分からない。きっと僕は何かを理解し間違えているのだと思う。賢明なる読書諸兄姉,どうかご教授下さいませ。
「スーパー・スプレッダー」という言葉が最終場面で その後の古賀の行動を表わすのに使われる。何のことか全くわからなかったので素直に調べた。「スーパー・スプレッダー」とはどうやら新型コロナバイラス禍津的用語の様だ。いろんな解釈があるみたいだが それらに一通り目を通した立場で 僕なりの一言で言うと「強烈な感染力を持ったウイルス保持者」ってところか。なぜ平野がこのコロナ用語をここで使ったのかは不明だが,彼はやはり変わったジュンブン人間なのね,と思った。
最後に感心した事を書き置く。本書には誤字脱字や事実関係が間違っていたり 著者の勘違いによる誤りを犯したりと思しき記述が無かった。いやそう云うのに僕は気づけなかった。流石は京大法学部卒の書いた 純文学作品!