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「教養」という名のフィルター
空は青いし、空気は澄んでいる。
やわらかな極上の陽射しを浴びながら朝さんぽ。清々しい気分で床磨きへ。豊かな朝を迎えるだけで、一日の幸福は膨張する。
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今日は一日中、原稿を書いていた。書いては、書き直し。ニール・サイモンの自伝のタイトルのように書いて、読んで、また書き直してを繰り返している。決して派手とは言えない慎ましやかな作業。有難いことに、仕事で日々文章を書かせてもらっている。
ふと「いい文章とは何だろう」と考える。自分はいい文章を書いているのだろうか。昨日より、いい文章を書くようになっているのだろうか。一年前に自分が書いたものを読んでみると、確かに今の文章とは違う。二年前のものと比べても違うし、三年前のものと比べてもやっぱり違う。着実に更新はされている。そんな気がする。ただ、それは“今の自分”がそう感じているだけなのかもしれない。
技術の向上は、ただ単に量をこなせばいいものではなく「試行錯誤の量」が大事なのだと思う。これはきっとあらゆる技術に当てはまる。対話も、インタビューも、文章も、料理も。一度の体験にどれだけ試行錯誤をカウントできるか。それを意識すれば、自ずと観察力も感性も磨かれてゆく。
対話は相手が人でなくとも、本でも、音楽でも、モノとでもできる。「人とたくさん話したから…」「本をたくさん読んだから…」「音楽をたくさん聴いたから…」といって対話が向上するわけではない。その中で、何を受け取り、何を感じ、何を思い、何を問い、理解を深めていったか。その試行錯誤の量が大事なのだと思う。つまり、技術の向上には日記的な感性が求められる。さらに言えば、あらゆる技術は対話的なコミュニケーションを元に向上してゆくのだ。
いい文章を書きたい。
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このnoteというプラットフォームで日記を書いている。
コロナ禍の前にこの場所で出会った人はたくさんいたけれど、関わりのある人は数えるほどになった。5年も経てば、生活も変わる。そう思うと、文章を書き続ける人は少ない。
“健やかな創作”について考える。
書くことが好きではじめたのに、いつからか書くことに苦しめられていった人を何人も見てきた。当初、救済だった創作が、いつの間にか苦しみをブーストする装置に変わってしまう。
“健やかな創作”とは何だろう。
喫茶店でコーヒー飲むくらいの感覚で、誰の評価も気にせずに自分のペースで創作する。それができなくて、創作自体を嫌いになっていく人がたくさんいた。認められないこと、求められないことへの怒り、恐怖、淋しさ。見返りを求めると、創作は不健全になってゆく。
この場所で小説やエッセイを書くことは、ジムで筋トレしたりプールで泳いだりすることに近い気がする。日常を健やかに過ごすために、汗を流したり、エネルギーを発散させたりする行為。多く見積もっても、シェイプアップしたり、美しく日々を過ごしたいと思うくらいの感覚で。ライフスタイルを構成する一つの要素だと捉えるといい。
もちろん、この場所からプロの作家やエッセイストになる人もいるし、そういう道につながっていることは否定しない。ただ、それだけを考えてしまうと魂が腐敗していく。何でもない日記みたいなものだったり、熱にうなされて書いた物語みたいなものであるほうがきっといい。
健やかな自分を育むための“排泄行為”としての創作を。滞ると不健全だから、巡りを良くするための行為として。長く、健やかで、美しく過ごせるためのエキササイズやメディテーションとしての創作。一所懸命になるのもいいし、のんびりしていてもいい。ただ、続けることが大事だと思う。
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ある人の日記を読んでいる。
その人の日常が淡々と描かれていて心地良い。自然と置かれたことばに、ふとした表現に、その人の教養と美意識が現れる。それに触れるだけで、しあわせな気分になる。日記はただ、そういうものであってほしい。
教養が人との縁をつないでくれるし、教養が人との縁を妨げてくれる。要は、持ち合わせた教養が会いたい人を選んで結んでくれるのだ。教養は大切だとあらためて気付かされた。
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