侘・寂・萌×日本の美意識論
ここのところ、僕の研究のテーマは〝日本の美意識〟について集約されています。
クリエイターの方の取材をしたり、本を読んだり、実際に作品を見たりして気付いたものが頭の中で抱えきれなくなってきたので、ここで一度整理してみたいと思います。
〝侘寂〟といえば日本の美的感覚の一つです。
茶の湯の世界で広く知れ渡りました。
不完全なもの、粗末なもの、下手物
これらのことを〝侘寂〟と呼ぶのですが、枠組みが曖昧でしっくりきません。
ですから僕はこのように捉えました。
《侘寂》
経年変化によって生まれた新たな味わいを愛でる感覚。
使い古した様やそのことによってヒビや傷が入ったり、欠けたりした様子を愛でる感性とでもいいましょうか。
実はこの〝侘寂〟という感性は茶の湯以前、古くは万葉集にも見られます。芸能でいうと15世紀には能楽師である世阿弥が〝冷・凍・寂・枯〟という冷え枯れの美を提唱していていました。
茶の湯においては、村田珠光、武野紹鷗に引き継がれ、千利休で完成したと言われています。
また、その精神は江戸時代の俳人、松尾芭蕉にも受け継がれています。
古いものを愛でる、朽ちたもの枯れたものに情緒を感じる。
日本人の中に古くから脈々と受け継がれてきた美的感覚ですよね。
続いて〝萌え〟ですが、これも日本特有の美的感覚です。
〝萌える〟自体の本来の意味は〝草木が芽を出す〟ということだったのですが、1990年代あたりから主にオタク文化と呼ばれるアニメやゲームのキャラクターに対する強い愛着心として使われはじめました。
そこから次第に市民権を獲得してゆき、アイドルに対しても適用され、2018年度の第七版の広辞苑に採用されるまでになりました。
これもまだ明確に言語化されていない言葉で、〝恋愛感情〟とはまた違う恋慕の情ですよね。
僕はこの〝萌え〟をこう解釈します。
《萌え》
未熟なものを愛でる感覚、かわいさ。
つまり、〝未完成の危うさ〟や〝稚拙な愛らしさ〟。
これは決してオタク文化だけに言えることではなく、日本のアイドル文化にも当てはまります。
ジャニーズやAKB、群雄割拠がしのぎを削るアイドル大国日本。
世界各国、これほどまでアイドルの量が多い国はありません。
なぜ、日本ではこれほどまでアイドルが持てはやされ、崇拝されるのか。
これは日本人に流れる〝萌え〟の感性なんです。
海外のシンガーやダンサーはアーティストなんです。
つまり、実力至上主義。人気と実力がキレイに比例します。
シンガーは歌が巧いし、ダンサーはダンスの超絶技巧で適切な評価を受ける。
しかし日本のアイドルたちは歌も下手、踊りも大してうまくない。
ただただ、そこが〝かわいい〟。
ハモリもせず、ただただ〝合唱〟しているグループがオリコンのトップ10に入る国なんて日本くらいのものです。
〝がんばっている君が好き〟
日本は〝実力〟で評価をしない国なんです。
いや、そうではなく、〝実力〟だけで評価をしない国なんです。
フォロワーは完成形へ向かっている途上のフラジャイルな部分を応援して補いたい。
侘寂・萌
これらの二点に共通することは不完全という点です。
侘寂・・・完成形から経年変化を起こしてくたびれた味わい
萌・・・未熟な形態から完成形へと向かう途上の情感
つまり、侘寂・萌、どちらも時間軸の幅を含めた美的感覚なんです。
※時間軸を含めて図にするとこうです
萌 → 完成 → 侘寂
未熟 → 完成 → 老成
萌の中には未来に予測されるであろう〝完成〟が含められ、侘寂には過去の〝完成〟を彷彿させる要素が多分にある。
そう考えると、日本人はあらゆるものを幅広く〝美〟として受け入れる感受性があるといえます。
未だ足りない姿に未来への伸びしろを含めて愛する〝美〟、そして煌びやかな過去の姿に想いを馳せながらも朽ち果てていく様子を愛でる〝美〟。
つまりはそのどちらにも面影として〝完成された姿〟を見出しているのです。
それそのものを見ず、その奥にある幻影としての〝完全なる美〟を。
多様な〝美〟に対する感性を持ち合わせていると、あらゆるものが美しく見えるので生きる上では得ですよね。