リリカルとロジカルの狭間で
文章を書いています。
小説を書くこととライターの仕事。
この二種類が基本的に僕の「文章を書くこと」にあたります。
同じ「文章を書く」にしても、使っている脳みその筋肉は違います。
以前、酒に喩えて説明したことがあります。
小説は醸造酒であり、ライターの仕事は蒸留酒である。
小説の場合、原料は自分自身の体験や知識や美意識です。
そこから想像力で発酵させていきます。
ライティングの場合、原料は取材の中にあり、インタビューを通して発酵させていきます。そこから蒸留機で何度も過熱と冷却を繰り返し、文章の切れ味を磨いていく作業が主です。
同じ文章でも、使っている技術や脳の領域は違うんですね。
僕は『教養のエチュード』というネットメディアを運営しています。
教養とユーモアをテーマに、クリエイターの方々にインタビューし、さらに分析と発見で内容に奥行きを出すことを意識しています。
noteで「論×RON」というマガジンを出していますが、実際のインタビューにこれを掛け合わせたような内容です。
言葉や思考を整理していくと、ある種の快感を得ることができます。
難しいパズルを解いた時のようなスッキリ感です。
自分の中でも新しい発見があるし、まるで目に見えるかのように考え方やモノの見方が豊かになっていくので、一時期、集中的にこれをしていました。
そして、ある日、壁にぶつかります。
言葉にする野暮さ
とあるデザイナーの方をインタビューした時のことです。
いつもと同じように、対象を調べ、問いかけ、引き出し、まだ言語化されていない原料を採掘していました。
美しい数十分のインタビューを終え、レコーダーの文字を書き起こし、そこから文章にまとめようとした時にタイピングする手が止まりました。
「書けない」
これらの美意識を言語化した瞬間、美しさや瑞々しさが腐敗していくのです。「美しさ」を形容することもまた陳腐であり、言葉にならないものを解説した瞬間、そこにある輝きは光を失ってしまいました。
言葉にすることの野暮さに気付いた瞬間です。
どうやら僕は、ロジカル過多になっていたようです。
論理が導き出す美しさに魅了されていたのです。
でも、それが全てではない。
言葉では言い表せない輝きだからこそ、別の手段をとっているというケースが、世の中には数多く存在しているのです。
そう思った瞬間、自分が文章の領域でしていることが全てぼんやりと鈍く映るようになりました。
見えないところに本質はある
言葉で説明することは野暮です。
その時の僕には「品がない」という風に映りました。
では、品のある文章とは何でしょう。
それは詩や小説などの芸術に存在するのではないでしょうか。
つまりは、言葉の意味に捉われるのではなく、その言葉の持つ響き、醸す雰囲気、佇まい。文章から意味を読み取るのではなく、文章と文章の間───〝行間〟にメッセージが込められている。
「本質」は常に目に見えない部分に宿っています。
月の周囲に浮かぶ星を見ることと似ています。
星に焦点を合わせると見えないのですが、月に焦点を合わせるとにわかに存在に気付くことができる。
「星を形にしよう」と思った瞬間に、その輝きは、その姿は消えてしまうのです。
芸術はリリカルであるべきです。
これは僕の個人的な考えです。
物語はリリカルであるべきです。
これは僕の個人的な考えです。
ロジカルな人間は言葉を必要以上に頼り過ぎてしまいます。
リリカルであるためには「言葉以上に優れた存在」を知ることが一番だと思っています。
音楽に対する感受性が豊かな人は、奔放に言葉を扱うことができます。
言葉でなくとも、そのすばらしさを伝える方法を知っているから。
そこから遡って応用すれば、野暮さを解毒するには音楽が一番の良薬となることに気付きます。
「言葉でないものを信頼できている」ということは、とても価値があります。
リリカルとロジカルの違い
一言でいえば、「誰もが別の解釈を持つか、誰もが同じ認識を持つか」です。
リリカルな文章は読み手の数だけ解釈があります。
つまり、読み手に委ねるということです。
言葉が読み手の体験や、記憶や、知識と結びつき、光景や感情として動き出します。
ロジカルな文章は誰が読んでも同じ答えになります。
誰が、何回読もうが、正しく伝わらなければ、それはロジカルな文章とは言えないでしょう。
僕のテーマは、このリリカルとロジカルのバランスを保った文章で表現することです。
今、小説を書いているということもまた、文章への向き合い方として重要な役割を果たしているように思います。
この文章もまたロジカル過多になっていて野暮ったさを拭えませんが。
僕は日がな一日、リリカルとロジカルの狭間で揺れ動いています。