単一ハビトゥスの可能性
ハビトゥスとは我々の行為の基礎にある持続する性向(disposition)であり、さまざまな行為 (プラティック)を方向付ける性向の体系である(Bourdieu 1979=1990)。ハビトゥスとは私 たちの日々の振る舞いを決定づける基準と言えるのではないでしょうか。
ハビトゥス概念の産みの親であるブルデュー自身はハビトゥスを一人の個人に対して一つ 備わる単一なものと考えています。「三つ子の魂百まで」ということわざが示す通りに。 こうしたブルデューの単一ハビトゥス論に対してライールは人々の行動の詳細な観察を通 して個人が複数のハビトゥスを持つ可能性を発見しました。ライールは個人は複数のハビ トゥスを内面化しており、文脈に応じて使い分けている可能性を指摘したのです。
それでは一体ハビトゥスは単一なのでしょうか、複数なのでしょうか。
様々なデータの分析を通して現代人の交友関係は状況指向的な特徴を持っています。状況に応じて顔を使い分ける、つまり現代人のアイデンティティは従来考えられて いたような確固たる単一のものではなくて流動的で多元的である可能性が指摘されるので す。ライールの言葉を借りれば「同一の行為者が、異質で、矛盾する性向を共存させる内的 複数性を備える」(Lahire 2012=2016)状況が現代では実際に起こっています。
片岡は複数ハビトゥスを2種類に分類できることを示唆しています。一つは多元的アイデ ンティティを有し、一部は自己分裂症のような状況を示す場合。もう一つは行為の基準を状 況に応じてスイッチできる存在であり、複数のハビトゥスを状況に応じて切り替えて、適応 力を強めていくような場合です。
現代人の状況指向的な交際状況や、多元的なアイデンティティ像、片岡による複数ハビトゥ スの分類を踏まえると、ハビトゥスは複数性を持っているとしたほうが納得的に状況を整 理することができるような気がします。
しかし複数ハビトゥスは本当に現代人の日常行為(プラティック)を十全に説明し切れてい るのでしょうか。私はハビトゥスを複数なものと捉えることはアイデンティティの肯定的 定義(A=B)にしか注目していないのではないかと考えます。本当に複数ハビトゥスを否定 することは多元的アイデンティティ像を否定することにつながるのでしょうか。
片岡による分類の前者にあたる代表例としては「ビリー・ミリガン」の存在を指摘できるで しょう。彼は分裂症の犯罪者であり、彼の中には教師のハビトゥスから暴力的な男性、はた また気弱な少女からレズビアン、そしてゲイに関係を迫られ心を閉ざした花屋の小僧(!)のハビトゥスまで存在します。ハビトゥスは学習し、体得するものですが、オハイオ州立大学 に通う大学生の男子(ビリー・ミリガンのこと)がどうやってゲイに関係を迫られ心を閉ざし た花屋の小僧を学習し、体得するのでしょうか。それは教師や暴力的な男子、レズビアン、 気弱な少女もまた然りです。片岡先生のこの分類を見たときに真っ先にこの疑問が浮かんでしまいました。
また第二の分類に対して病的とは言わないまでも複数のハビトゥスを持つ人間は行為(プラ ティック)の基準をスイッチできる人物だとしています。しかしどこかこの説明は違和感を 感じさせます。ハビトゥスとは「行為(プラティック)を方向付ける性向の体系」なのではな かったのでしょうか。ハビトゥスの定義に立ち戻ったとき複数ハビトゥスを持つものが行 うスイッチもまた行為であり、そのスイッチを方向付けるハビトゥスは一体何であるのか という疑問が生じます。この問いを突き詰めると無限後退に陥るのは明らかでしょう。
ここで私は大澤真幸先生の議論を引用したいと思います。大澤先生は自己とは多元化して しまう方が自然であり、単一の同一性を保持していることの方がむしろ奇妙なのではない かと考えるところからスタートされます。こうしてスタートを切ったときに提出される問 いはなぜ従来は自己を一貫的なものとして捉えてきたのか、そしてなぜ人は多重人格にな らずにすんだのかという問いです。この問いに対して大澤先生は人の同一性というのは私 が何であるのかということではなくて、私が現に何でないのか、あるいは反実仮想として、 私が何であり得たのかという偶有性によって支えられていると考えました。 現代人は「私は OO である(A=B)」と考えるのではなく「私は OO ではない(A≠B)」と考えて「アイデンティティの拡散」を防いでいるのです。
皆さんも一度は考えてみたことがあるのではないでしょうか。「OO のようにはなりたくな い」と。そして「XX のようになりたい!」(学芸大生は XX に憧れの先生を代入するのだろ うか)と考えていてもその憧れの対象である XX はな りたくない OO の反面としての XX なのではないでしょうか。 デュルケームはかつて犯罪は必要悪だと論じました。犯罪があるからこそ私たちは善いこ と、つまり社会的な規範を相対的に実感することができると彼は考えたのです。つまり XX を憧れるには考えたくもない OO の存在が必ず必要なのです。そして XX を憧れるには OO を否定する以外ないのです(憧れの先生 XX は実は嫌いな顧問 OO の反面教師(本当に教師 笑)なのかもしれない)。
ここでハビトゥスの議論に戻りたいと思います。私はハビトゥスは単数だと考えます。しか しここでのハビトゥスは人々を肯定的に方向付けるものではなく、否定的に方向付けるも のです。否定的に方向付けるハビトゥスにおいて人は「こうはしないぞ」、「ああはしないぞ」の積み重ねで文脈ごとの振る舞いを決めて いるのではないでしょうか。こう考えることで単一ハビトゥスの多元的アイデンティティ との親和性問題も解消されるように思います。なぜなら否定する単一の基準に当てはまら ない限り、振る舞いは開放されており、多元的であるからです。
参考文献
・片岡栄美(2019)『趣味の社会学 文化・階層・ジェンダー』青弓社。
・浅野智彦(2015)『若者とは誰か アイデンティティの 30 年』河出ブックス。
・大澤真幸(2018)『社会学史』講談社現代新書。
・見田宗介(2008)『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』河出書房新書。