誰にも必要とされなくなるのがとにかく怖い
2019年9月にベーチェット病にかかった。「1~2年は様子見する必要がある」と知りながらも、その1~2年があまりにも長すぎて苦痛に耐えきれない。本音を言えば、今すぐ痛みや苦しみから解放されたい。そして、難病になっていない人を見るたびに、「ああ、いいなあ」って悲しい気持ちになってしまう。健康的な生活ができていて、世の中に不平不満を言う人を見るたびに、嫌な気持ちになるし、糞食らえって思っている。本当はそんなことは思いたくないんだけど、心が追いつかないからもうどうしようもない。
「なんで自分が」という自問自答はもう腐るほど繰り返してきた。自問自答を繰り返したところで現状が変わらないことも理解している。とはいえ、まだ難病になったことを受け入れられていない自分がいるんだよ。ただの弱音かもしれないけど、自問自答を繰り返している時点で、現状から逃げ出したいって思ってるんですわ。もう今すぐに楽になりたい。
11月は担当医からの「失明するかも」という脅し文句からはじまり、睡眠時間の激減や無気力症候群、とにかく精神的なダメージが大きい。睡眠は大事だのは理解しているが、なかなか眠りに就けず、何をするでもなく、ただ夜が明けるのを待つ毎日。気がついたら涙が出ていて、それでも生きるために仕事をする必要があるから、2,3時間睡眠で、毎日仕事に取り組んでいる。睡眠時間を削るのはもちろん間違っていることも理解しているけど、眠れないんだから、もう手の施しようがない。
「目の前に立ちはだかる試練は乗り越えられる人のためにある」とある人は言う。そして、試練だと思っていたものは乗り越えれば、「あれ?なんでこんなことで躓いていたんだろう」って気持ちになるのがオチ。でも、苦しさの渦中に揉まれる人にとっては、目の前の試練はとてつもなく高いもの。ひょいと乗り越えられるほどの身軽さを身に付けることができれば、どれだけ楽になるのだろうか。前を向きたいけど、前を向くには時間を要する。救われたいけど、救われるには、自分と向き合い続ける必要がある。自分と向き合わなければさらに地獄は続き、自分と向き合えば、いつか地獄から解放される。自分と向き合って苦しい思いをして地獄を乗り越える方が最終的には楽だけど、その分痛みが伴うから、向き合いきれていないってのが今の現状だ。
気休め程度の優しさはかえって毒になる。そして、その毒が体を徐々に蝕み、さらなる苦痛を連れてくる。だから他人の優しさに触れたいけど、触れたくないというわがままで醜い自分が現れてしまう。自分にも他人にももちろん悪気はない。でも、当事者にしかわからない苦しみってやつが絶対にあるから、「わかってたまるかよ」って気持ちになってしまうんだよ。そんな醜い自分と出会うたびに、死にたくなるし、やりきれなくなる。
綺麗事を抜きにしていいのなら、僕はなぜ生きているのかわからない。そして、死が脳裏をよぎることもあるが、死にたいわけでもない。自死を選ぶ勇気は僕にはないし、まだやりたいことがたくさんあるから、死にたくない。夜に生きる意味を考えると地獄を見ると、知りながらも夜に生きる意味を考えてしまう僕はおそらくもう末期だ。他人の相談を乗るのは得意だけど、自分のことになるととことんダメになる。客観的な視点は養われているけど、主観的な視点は皆無と言っていいほど養われていない。
苦しい時に他人を気にかけてしまうのは、自分の苦しみから目を背けたいからなんだろう。そして、他人に必要とされることで、自分の自我を保っているのかもしれない。誰からも必要とされなくなるのがとにかく怖い。だから、どれだけ苦しくても、他人の役に立ちたいし、立とうとしてしまう。本当は自分のことで目一杯のくせに、他人に縋ることで自分の存在意義を確かめるなんて実に滑稽だろう?僕は自分の存在意義がなくなってしまうのが怖い。誰からも必要とされないのならば、もう死んだも同然だ。とはいえ、自分とも向き合わなきゃならないのが難しいところ。ああ、早く病気が良くならないかな。もう疲れたよ。
2020年はつくづくうまくいかない年だった。でも、これはきっと遠くへ向かうための助走なのかもしれない。そう思わなきゃやってられないから、自分で来年は羽ばたけると思い込もう。絶望しながらも自分のことは自分で救う。それがきっと前に進むための布石で、自分を大きく成長させきっかけになるのであろう。病気になったことをネガティブに捉えるのではなく、ポジティブに捉えられる箇所を見つけ、そいつを盲目的に信じていく。それでいい。その方がきっといいに決まっている。ちゃんと生きて、ちゃんと絶望しよう。そして、2020年よりも素敵な自分を自分の力で実現させる。今よりも素敵な景色を見るために、僕は懸命にもがき続けてみせるよ。