優しいひとであるために
「優しさってなんだろう?」
ふと優しさについて考えてみた。
優しさの定義は人によって違う。違うから面白いし、他人の優しさの定義を聞くことが僕は好きだ。
目標に向かって誰かが間違った努力をしていたとしても、何も言わないことは優しさなのか。僕はそれを諦めの行為だと思っている。一見優しさのように思えるが、わかっているのに何も伝えない行為は優しさなんかではない。
嫌われるかもしれないけど、きちんと何がどういけないのかを伝えてあげることが優しさだ。相手に何も言わない行為は、相手に対して何も期待していないという表れで、そんなものは優しさではなく諦めだ。
夢や目標に向かって走る人にとっては厳しいかもしれないけど、きちんと面と向かって、現実を教えてあげることが僕にとっては優しさである。
褒める行為は優しさか。褒める行為は優しい行為なのかもしれない。褒める行為によって、相手のモチベーションが上がるのなら何度だって褒める。
でも無闇やたらと褒める行為は優しさではない。褒めることで調子に乗ってしまうことだってある。その結果天狗になったり、人のことを蔑んだりする。
褒める行為はタイミングが重要だ。タイミングを見極め、適切なタイミングで、褒める必要がある。時に厳しい現実を伝えたり、時に褒める行為が、本当の意味で相手のことを思っている行為ではなかろうか。
人によって態度を変えてしまう人がいる。自分の好きな人には優しくし、嫌いな人には好きな人とは違う態度を取ってしまう。
人によって態度を変える人は、相手に対して見返りを求めているのかもね。見返りを求めることは悪いことではない。僕だって見返りを求めていることがある。でも見返りが返ってこなかったとしてもそれで怒るなんて真似はしない。
でも見返りが返ってこなかったら、嫌な態度を取ってしまう人もいる。どんな人は優しい人ではない。
なんて悲しい行為だろうか。人によって態度を変えてしまう行為は、優しい人ではなく、誰にでも平等に接することができる人が優しい人だと思う。
ちなみに僕はよく人に「優しい人」だと言われることがある。
違う。違う。違う。
僕は嫌われることを誰よりも恐れている。嫌われたくないから、人に優しくしているんだよ。いつだって人の目を気にしてばかりいる。
だから、相手に厳しいことも言えないし、無闇やたらと褒めてしまう。それは優しい行為ではなく、自分が嫌われないための行為でしかないのだ。そんなものは優しさなんかではなく、ただのエゴでしかない。
ほんとうに優しい人は相手に真摯に向き合っている人。真摯に向き合っているから、時に厳しい言葉を掛けるし、褒める行為も怠らない。
たまに自己犠牲をしている人を見かける。それは果たして優しい行為なのか。自分が辛い思いをして、相手が楽をしているのであれば、それは自分にとっては優しい行為ではない。
例えば仕事。
相手の成長のために与えられた仕事を奪ってしまう行為は、成長の機会を奪ってしまっている。確かに自分でやったほうがはやくおわってしまうかもしれない。でも自分の仕事+αで仕事をして、自分を追い込む行為は、自分に優しくない行為。
相手が自分の頭でしっかりと考え、仕事を完了できるように導くことが優しい人なんだと思う。
相手に依存させることなく、自分の頭できちんと考えることができて、独り立ちさせる行為が優しさだ。
相手にとっても自分にとっても優しい人がほんとうに優しい人。
人に嫌われることを恐れずに、ほんとうの意味で優しい人になりたいものですね。