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「書く」ことは生きること

20代後半になってから毎日文章に触れている。お仕事としての文章。noteで700日間更新を続けている文章。自分は文章の仕事をしている息抜きに、noteで文章を書いている。そして、ここ最近はあまり本を読めてはいないんだけれど、暇さえあればずっと本を読み、自分が歩まなかった物語に触れてきた29年間だった。

今日MUSICDAYで、あいみょんが「音楽は生活の一部で、私の生活は音楽でできている」と言っていた。その言葉がまさに自分とリンクして、あいみょんほど結果を出せているわけではないけれど、毎日文章を書いている自分にも同じことが言えると思った。

書いて、書いて、書いて。

文章で生活を成り立たせる。それは仕事であったり、気持ちの整理であったりもする。文章を書いて、救われて、文章を書いて、生活をしている。そして、他人の書いた文章になんども救われてもいる。そんな生活がいつまで続くかはわからないけれど、出来るだけ長く続かせたい。

文章に触れるその行為自体が、まさに生活の一部のような感覚で、文章がない生活はいまはもう考えられない。

でも、もし文章がない人生を歩んでいたら、どんな人生を歩んでいたのだろうか。そんなありもしないもしもを妄想するのが好きでずっと考えている。

おそらく文章がなければ、小学校の教師になっていただろう。大学で教員免許を取得した。教員免許を取得した理由は、子どもが好きだったからという安易な理由からだ。子どもに囲まれる生活は、楽しくて、ときに辛いものがある。

自分が子どものときに、教師の言うことを聞いていたかと問われると、聞いてなかったような気がする。聞き分けのいい子どもばかりだと、楽なのかもしれないけれど、自分みたいな聞き分けの悪い子供もたくさんいる。

でも、もし文章がなければ、教員になっていたと思う。毎日子どもたちに触れ、ときには叱ったり、ときには楽しく一緒に遊んだりと、それはそれできっと楽しい生活を送っていたにちがいない。

教師の生活は大変だろうけれど、子どもたちの成長をすぐそばで見られる立派でやりがいのある仕事だ。文章を仕事にしているいまも、いつか子どもの教育に携わる仕事がしたいとずっと思っているから、本当に子どもが好きなんだなぁと思う。

でも、教員を免許を取得したにも関わらず、いまも教師にはなっていない。その理由は、文章が生活の一部になってしまったからだ。文章がなければ、自分という人間は成り立たない。そう思ってしまうぐらい文章が大切で、文章をこよなく愛している。

文章を書くことは生きることに等しい。

だから、文章を書かないことは死んでいくことと同義なのかもしれない。優れた文才があるわけでもないのに、ずっと文章がある生活を歩んでいる。

「もし素敵な文才を持っていれば」と、考えてしまう日ももちろんある。文章を書くたびに、自分の実力不足を嘆く。でも、文才がない事実を嘆く時間は嫌いじゃないのかもしれない。前向きに捉えれば、常に向上心を持っているとも捉えられる。そして、書いた文章に満足がいってしまうと、もう文章を書かなくなってしまうかもしれない。

文章を書くことが好きだ。そして、文章に触れることも好きだ。この人生は文章に触れるために、あると言っても過言ではないのだろう。だからこれから先もずっと文章に触れていく。それが自分のためでもいいし、他人のためだっていい。誰のためであろうと、文章とともに生きるその事実は変わらない。

今日も明日も、そして、これから先ずっと変わることなく、文章を書いて、生きていこう。

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