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実話なんて書かなくても生きていける

実話をネット社会に解き放つのはリスクだらけである。

先日、居酒屋で友人に「実話をネットに公開するって怖くないの?」と聞かれた。公開ボタンを押すときは、いつも不安がある。実話をネットに公開して何も起きなかったときに「やっと安心できる」を何度も何度も繰り返す毎日だ。

個人的な話は、誰も求めていないかもしれない。自身が書いた文章を読んで、不快感を示す人がいる可能性や実話で人を傷つける場合もあって、あなただからできたんでしょと思われる機会も何度もあった。すべての実話は所詮は自己満足の域を超えず、救われたいとか、読まれてうれしいとかそういった類の承認欲求のために使われるのだろう。

文章など書かなくても生きていけるし、ネットに公開しなくても生きていける。誰かに読まれて傷つく可能性があるならば、書かないほうがいいのかもしれないと感じる瞬間を何度も味わってきた。

それでも稀に文章を書いて良かったと思える瞬間と巡り合う場合がある。

つい最近、自身が患ったベーチェット病について文章を書いた。

公開ボタンを押すのが本当に怖くて、何度も公開するか迷ったエッセイである。自身の闘病記など誰も興味がない。それが事実だったとしても、難病について知ってもらう機会を作って、当事者の方の力になりたいと思った。当事者にしかわからない悩みはたしかに存在する。その証拠に何も知らない人からの励ましよりも、当事者同士の励ましの方が何倍も効力を発揮する場合が多い。それが傷の舐め合いと言われようが、当事者の方が少しでも生きやすくなるのならば、傷の舐め合い万歳と声を高らかにして言ってしまえる。

ちなみに記事の大半は闘病の話で、前向きに生きる決意で締めくくられている。記事が公開され、どんな反応があるのかに怯えていた。ところが、記事の公開直後にたくさんの人がSNSでシェアをしてくれたり、励ましのメッセージをもらえたりした。予想外の反応である。その中でも卒業した大学の教授からの励ましのメッセージは特にうれしかった。難病が再度結んでくれたご縁に感謝したい。

ここであらためて言わせてください。たくさんのメッセージやご協力本当にありがとうございます。僕はつくづく周りの人に恵まれている強運の持ち主だと思います。これまでに出会った人の誰か一人が欠けていたら、今の自分はない。

難病を患ってから、これまでの当たり前をたくさん失い、新しい当たり前がたくさんできた。以前よりも生活は不便になって、そこに絶望する時間は確かにあるんだけれど、生きる希望の方が何倍も大きいのが事実だ。僕はそう思わせてくれる人の存在にずっと救われているのだ。

難病について書いた記事を公開するか何度も迷ったけれど、今は公開して良かったと胸を張って言える。それでも実話を公開するリスクはやはりあって、そこに抵抗がある人は多いはずだ。誰もが実話を公開しなくてもいいと思っているし、実話以外にもたくさんの種類の文章があるのも事実だ。

どんな文章を書くかはそれぞれの自由で、誰かが書き方を強制するわけでもない。究極は自分が書きたいことを書けばいいし、公開するかしないかも当人の自由だ。文章を書く人が増えればうれしいと思ってはいるものの、それは文章を書く楽しみを知る人が増えればうれしいなのである。実話を書くリスクにわざわざ飛び込む必要はない。

それでも稀に実話を書いて良かったと思える瞬間がやってくる。その瞬間のために文章を書いているわけではないけれど、「書いて良かった」は「生きてて良かった」につながる瞬間と言っても過言ではないのだ。

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サトウリョウタ@毎日更新の人
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