鏡に映るお前はいったい誰だ?
鏡の前に映る人は一体誰なんだろうか?
本当の自分?それとも仮面をかぶった偽りの自分?
偽りの自分はもう自分ではないのかもしれないし、仮面を被り続ける自分もまた自分自身なのかもしれない。
本心を隠し、世間体ばかりを気にしていないだろうか?
ぼくは世間体を気にすることがよくある。
「世間体を気にするな」と言われても、世間と共に生きているのだから気にしない方が難しいんじゃないかな。
世間体を気にするが故に諦めと絶望を行ったり来たりしている。そして、そんな自分に「ああもうやだ」って言いながらも今日をせっせと生きている。
「世間からよく見られたい」
これは誰もが通る道であろう。だって評価を気にするのは当たり前のことなんだもん。
ぼくも悪いように見られるよりは、良いように見られたいという想いがある。誰だって悪いように見られるよりは良いように見られた方が気持ちが良いでしょ?
よく見られるために、365日と24時間の繰り返しのなかで、何者かになろうともがき続けたこともあった。
懸命にもがき続けた結果、何者かになれなかったことに気づく。自分は自分にしかなれないことは諦めに似た希望なんだろう。自分の道を切り開くのは自分しかいない。でも何もしなかったら状況は変わらない。
SNSを見ていると、普段の自分ではない「誰か」を演じている人をよく目にする。
ふと誰かが言った。
「SNSは前向きな方が受けが良くて良いよ。」
こんな言葉が今日も誰かを惑わせる。
そして「あ、SNSは後ろ向きなことをつぶやいたらダメなんだ」と勘違いするようになる。確かにネガティブなことを隠し、明るく振舞っていた方が見ていて嫌な気持ちにはなりにくい。
でも自分の感情を押し殺すことで、本来自由なはずのSNSが、不自由なものになってしまうのは悲しいこと。世間体を気にするが故に、けっして本心を明かさず、上手くいっているようにたち振る舞うのだ。
上手くいってるように見せかけ、実際はもがき苦しんでいるという人を、今までに山ほど見てきた。
悩みや弱音を吐くと、今までつながってくれた人が離れるかもしれない。
そんな恐怖と戦いながら、上手くいっているようにたち振る舞うのだ。
そして悩みや弱みをぶつけるために、裏アカと呼ばれるアカウントを作り、愚痴や弱音を吐くようになる。裏アカは自分の負の気持ちを消化するのにちょうど良いからね。
自己ブランディングのために、本アカではネガティブなことを呟けないのだ。
だから今日も嫌だったことや悩んだことを、裏アカにせっせと書いているんだろ?
わかる。ぼくも嫌われたくないし、離れられることが怖い。だからあまりネガティブなことは書けない。今日も誰もが、嫌われることの恐怖と絶望と戦っている。
その結果、今日もまた誰かの心が疲弊してしまっているのかもしれない。
ああ、自由なはずのSNSが、ずいぶん不自由な世界になってしまったものだね。
鏡の前にいるあなたに告ぐ。
「お前は誰だ?」