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生きていて良かったと思える夜をあと何度過ごせるだろうか
ずっと早く歳を重ねたいと思っていた。それが今抱える苦しみから逃れる唯一の術。ずっと死にたいと思っていた10代後半。弱音の吐き場所さえわからずに、深夜の河川敷で何度も涙を流した。
川の流れに沿って緩やかに生きていたい。しかし、現実は波瀾万丈な人生を過ごしている。16歳から家族を養うために、周りが遊び続けるなか、早朝から深夜まで働き続け、27歳で難病を発症して、今もなお闘病を続ける日々。死にたいと思う日々ならいくらでも過ごしてきた。それでも死ぬ勇気などさらさらなくて。消費されゆく命の速度を速くしたいと、早く歳を重ねたいと思うようになった。
涙の数だけ強くなれるわけなんてない。むしろ弱さがどんどん露呈するだけだ。どれだけ涙を流そうと、課せられた運命に抗わない限りは強くなれない。傷ついた分だけ痛みを知り、傷つけた分だけ人との関わり方を知る。誰かの優しさは誰かを傷つけたことによって得た副産物なのだ。
他人に涙は見せない。我慢が大切。強さの意味を履き違え、ただの意地となっていた。涙で腫れた瞼に、未来を生きる希望はなく、そこから早く逃れたいという欲求ばかりが膨らんでいく。
一縷の希望に縋りながら社会人になって、学生時代の苦しさに二度と戻らないように懸命に働き続ける日々。自分の限界がどこにあるかすらもわからない。頑張れば頑張るほどに虚無に襲われる。汗を流して手に入れたお金はただの紙切れに過ぎず、どれだけ金で満たされても心は満たされない。無理と無茶の違いを知らず、何者にでもなれるという無知が己の首を絞める。手が届きそうで届かなかった希望は絶望へと顔を変えた。何者かになんてなれるわけがない。最初から知っていたくせに、気づかないふりをし続ける日々を過ごしていた。
人間として生まれたからには一生自分として生きていく必要がある。自分から逃げ続けた罪が重くのしかかった瞬間に、またしてもその場から逃げたくなった。「逃げちゃダメだ」と碇シンジは言う。このように人間は簡単に逃げたくなるものだ。立ちはだかった壁に立ち向かうためにはかなりの勇気を要する。遠くまで逃げたところでいつの日か絶望がまた自身の道に立ち塞がる。その事実は承知の上でも人は簡単に逃げるものだ。でも、そこに成長はない。なんて当たり前の話か。
満たされていく財産と反比例して、幸福が遠ざかる。金で満たされなかった過去。もしも、たられば、周りの社会人たちのキラキラした目と世間に対して冷酷な目をしている自分。幸せとはなんだ。金だけがあることではない。お金は大切だけれど、そこに比重を置きすぎると、目の前の大切なものがどんどん遠ざかっていく。挙げ句の果てに、過労によって体は崩れ去り、後に難病を発症し、今もなお闘病を続けている。
失ったものを数えれば数えるほどに、虚無感に打ちひしがれては、生きる意味を問いたくなる。生きる意味などないし、なんのために生きているかなどこの際興味もない。それでも何かに縋りたくなるのはまだ弱い証拠か。人生において大切なのは、残されたものやすでに手のひらの中にあったものとどう生きていくかだ。
強さとは希望がなくとも希望を探し続けられることなのかもしれない。それは積み重ねによって得られるものだ。弱さとは自分から逃れようとする意志なのかもしれない。それは理由をつけて後回するや楽をしようとするさまから生み出されるものだ。
たくさんの困難を乗り越えた結果、人生が楽しくなった。悲しいとか辛いと思う日はあれど、もっと人生を楽しみたいという気持ちが体の底から湧いてくる。人は1人では生きられない。何かに縋ったっていい。誰かと支え合うことは弱さではなく、人本来の役割でもあるのだから。それでもいいと思える潔さは武器になる。これは諦めではなく、誰かと共に生きていく揺るがない覚悟だ。
今は苦しみから逃れるために歳を取りたいわけではない。この楽しい人生の未来にはどんな楽しいことが待ち受けているのかを期待している。さて、生きていて良かったと思える夜をあと何度過ごせるだろうか。
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