「居場所」がないと勝手に思っていた
昨日はいつも一緒にいる人たちとの忘年会で、お酒を飲みながら楽しい時間を共有した。
忘年会の帰り道、お酒が入っていたからかなぜか僕は泣いていた。今生きていて多分一番幸せだと思う。でも、自分の人生に価値を見出せないこともあって、生きることに疲れてしまっていた時期もあった。年齢を積み重ねれば積み重ねるほど、幸せな時間が増えている。それはとてもありがたいことで、どれほど感謝しても足りないぐらいだ。
「居場所がない」とずっと思っていた学生時代。 自分の居場所がほしいとずっと思っていたけど、居場所の定義がじぶんでもよくわからなかった。人付き合いが苦手だから、忙しいふりをして、友達との遊びを断る。付き合いを断り続けると「あいつは忙しいから断られるだろうし誘わない」という風になるんだよ。
誰からも誘われない生活。少し寂しいような気もしたけど、学生時代は遊ぶ余裕なんてなかったから別にそれで良かった。でも社会人になったいま、自分に居場所がないことを寂しく思うようになった。僕は人付き合いがあまり得意じゃない。仕事は割り切って、お付き合いがきちんとできるけど、プライベートだと散々で、去年まではほとんとお1人様で過ごしていた。
学生時代の友人で、いまも交流を続けている友人は数える程度しかいない。学生時代のほとんどを1人で過ごしたおかげで、どこに行くのだって1人でも苦じゃないし、今も1人だとしてもあまり気にならない。でも、誰かと一緒に楽しさを共有した方が喜びが倍増するということを今年は学んだ。1人で楽しみを味わうよりも、誰かと楽しみを共有する。それが何よりも嬉しくて、いろんな人と楽しみを共有したいなと思うようになった。
いま、僕の周りには素敵な人たちがいる。会社の経営をしている人。会社員をしながらバリバリ結果を出している人。自営で自分の好きなことをこれでもかとやっている人。仕事を頑張って家族を守っている人。クソくだらないことで笑い合える人。相談にいつでも乗ってくれる人。幸せなことに素敵な人しか周りにいない。
僕の周りには、人の気持ちを考えられる人が多い。みんな優しいし、その優しさに僕はなんども救われてきた。なんで自分と一緒にいてくれているのかはわからないけど、好きな人が周りにたくさんいることは幸せだ。周りの素敵な人たちに刺激を受けながら、日々を過ごしている。ありがたすぎて、いま一緒にいる人たちを大切にしなきゃなって、日々感じながら生きているんだよ。
人に優しくなれたこと。喜びを誰かと一緒に共有する嬉しさを知ったこと。2019年は、たくさんの出会いと別れを経験した年だった。人間関係はたいそれたことを望んでいなくて、くだらない話で笑い合えたり、相談しあったり、一緒に遊んでくれたらそれでいい。多くを望みすぎるとやがて関係性が破綻してしまうから、多くは望まない。楽しいだけが人生ではないけど、好きな人たちとはなるべく楽しい時間を過ごしていたいと心の底から思うんだよ。
「居場所がない」というのは、自分が勝手に作り出した幻想だった。
自分で勝手に「ここが自分の居場所だ」と決めてしまえば、そこが自ずと自分の居場所となる。居たいところに勝手に居ればいいし、離れたくなったら勝手に離れてしまえばいい。自分に居場所なんてないと思っていたけど、確かに僕の居場所はきちんとあった。
自分を受け入れてくれることはとても幸せなことで、感謝すべきこと。いつも助けてもらいっぱなしだし、その人たちが困ったら僕も何かの手助けをしたいし、絶対にする。
僕と一緒に時間を共有してくれてありがとう。
僕の周りにいる人たちは全員僕の宝物。
これからもよろしくね。
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