マンガでわかるHCI: ユビキタス・コンピューティングってなに?
ユビキタス・コンピューティングってなに?
前回は、「ユビキタス」という言葉について紹介しました(前回の記事はこちら: 「マンガでわかるHCI: ユビキタスってなに?」)。
カンタンに振り返ると、ユビキタスなテクノロジーというのは、
私たちの生活の中に融け込まれ、もはや空気のように、意識しなくてもそこにあるようなテクノロジー
というようなものだ、ということを紹介しました。
Mark Weiserの論文が発表された1991年当時、コンピュータはパーソナルコンピュータなどの登場により、一般に浸透されつつありました。しかし、その当時はコンピュータはまだ空気のような存在というには程遠いものでした。
当時は、机の上の大きな箱の前に、よっこらせと座りタイピングをする。なにかをしようと思ったら、マニュアルを読みながら操作していく、というのがコンピューティングの形でした。
しかし、これは彼の言葉を借りるならば、これは「なにか文字を書こうと思った時に、インクとパピルスを作る知識が必要だったような時代」だと言っています。これはどういう意味でしょうか。
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文字の本質というのは、なにか情報を記録したり伝えたり表示したりすることです。文字が日常化された現代に置いては、それがなにに書かれていようが、その背後にある紙やインクを作るテクノロジーについてはふだん意識しません。
同じように、コンピューティングの本質というのは、私たちがやるタスクを計算機の力を使ってサポートしたり、日常を便利にしてくれるものなはずです。しかし、当時は、コンピューティングをすることそのものよりも、それを使いこなしたり背後にあるテクノロジーにむしろ意識が向けられていました。そんな状況を「まるで、文字で情報を伝えるために、インクやパピルスといったテクノロジーを知る必要があった時代のようだ」と評し述べているのです。
彼は
「もしも、コンピューティングが文字と同じように『ユビキタス』になるならば、その背後にあるテクノロジーについては意識しなくなるだろう。コンピューティングが空気のように当たり前に日常に存在し、我々の生活を穏やかにサポートしてくれる時代が来るはずだ」
という意味を込めて、そうした状況を「ユビキタス・コンピューティング」という言葉を使って説明したのです。
ユビキタス・コンピュータのプロトタイプ
コンピュータサイエンス、特にHCI(ヒューマン・コンピュータ・インタラクション)の領域では、こうしたビジョンを示すとともに、プロトタイプなどを作って、どういうことなのかを具体的に示すことがよくあります。
その例にもれず、Mark Weiserも、Xerox PARCという研究室で作られたプロトタイプも一緒に論文に示しました。いわゆるTab、Pad、Boardと広く知られているもので、TabはPost-itのようなコンピュータ、Padは現在のiPadのようなもの、Boardは現在の電子黒板のようなものでした。
↑ Mark Weiserの論文で示されたプロトタイプ。
一つの部屋に100以上のTab、10-20のPad、1-2個のBoardがある。
これらのプロトタイプは当時としては画期的なものでした。しかし、一方でこれはあくまで彼の「ユビキタス・コンピューティング」というビジョンを示すための暫定的なプロトタイプにすぎません。
Mark Weiserの不幸
しかし、どちらかというとこちらのプロトタイプの方が注目されてしまいました。彼のユビキタス・コンピューティングという深遠なアイデアは、その意図するところが理解されないまま、「いつでもどこでもコンピュータ」「モバイルコンピュータ」「どこでもディスプレイ」というようなマーケティング用語として独り歩きしてしまいます。
実際、コンピュータに詳しい人であれば、「あぁたしかにユビキタスってなんか2000年代よく流行ったよね。今はもう古いと思うけど」みたいな感じで捉えられる人も多いと思います。
Mark Weiserはそのことに気づき、後に「Calm Technology(穏やかなテクノロジー)」という言葉で新しく自分の思想を再定義しようとも試みましたが、時すでに遅し。彼が描いたビジョンは忘れ去られ、「ユビキタス」という言葉が「いつでもどこでもコンピュータ」というマーケティング用語とともに、一時の流行とともに人々の記憶から消えていきました
↑ ユビキタスという言葉は、その意味が理解されないまま
マーケティング用語として一時の流行として認識されてしまった
今の時代はユビキタス?
彼の論文が発表されてからもう30年以上がたち、たしかにMark Weiserが言っていたように、コンピューティングデバイスが日常に融け込まれつつあります。
ふだん、当たり前のようにスマートフォンを持ち歩き、自動販売機にもディスプレイが乗っかり、時計のようなウェアラブルデバイスも日常的につけるようになり、スマートスピーカーでカンタンに音楽も流せるようになった。
たしかに、一見するとコンピュータはユビキタスになり、彼のビジョンは完全に達成されているようにも思われます。
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しかし、ここで、いま一度彼の論文を振り返ってみたいと思います。彼は、ユビキタスコンピューティングというものがどういうものかを読者にイメージしやすいようにSalさんという架空の人のある一日の情景をこんなふうに書いています ↓(日本語訳は清水亮さんによるものの引用です。)
起きてコーヒーの香りを嗅ぐSal。数分前、目覚し時計は彼女の起きる直前のブツブツとした喋りに気づき、「コーヒー、要る?」と聞いたのだ。彼女は「イエス」と答えた。ちなみに、この目覚まし時計の分かる言葉は「イエス」と「ノー」しかない。
Salが窓の外を覗き、近所を眺める。ある窓から、陽射と隣人の塀が普通に見えるが。他の窓から早朝出かけた隣人の電子足跡が見えるのだ。プライバシー保護やデータ制限のためビデオは表示されないが、時間の記録と電子足跡を見るだけでSalは安心する。
子供達の部屋を覗くと、彼らは15分前に起きて今台所にいるというのが分かる。彼らは、母親が起きていることに気づき、声を大きく出す。
朝ご飯を食べながら、Salは新聞を読む。多くの読者と同様、彼女は紙の新聞が好みだ。社説の中の一言が気になる。彼女はペンを持ち、新聞の名、日付、項目、ページに線をつけてから、その一言を丸で囲む。ペンが新聞に連絡し、それで、彼女のオフィスにその一言の内容が送られる。
ガレージの戸の会社から電子メールが届く。彼女はその説明書をなくし、本社に連絡したわけだ。新しい説明書を送っただけではなく、古い説明書を見つける方法も教えることにした。戸の鍵にあるコードを入力すれば、無くされたら説明書はピーピーと鳴る。すると、ガレージで箱の後ろに落ちた説明書が鳴いてくる。表紙には、チップが付いている。まさに、彼女送ったような苦情メールを避けるためである。
通勤中でSalはフロントミラーで渋滞情報を確認する。渋滞もあるが、それより気になるのは、グリーンで表示されている新しい喫茶店である。高速道路を出て、渋滞にはまらないようにあそこでコーヒーを飲むことにする。
Salが出勤したら、フロントミラーのおかげで早く駐車できる。ビルに入ったら、オフィスの機械は彼女の設定を準備しておくが、彼女が実際にオフィエスに入るまでは実行しない。同僚に声をかけて挨拶するSal。
Salが窓の外を覗く。今日は曇り、湿気75%、午後雨でしょう、という天気予報だ。社内の方は、いつもと違って急用はない。この窓では3時間前の様子も確認できるが、今日彼女はほっとおくことにする。仕事中毒の仲間はこれほど遠慮しないだろう、と考えるSal。
すると、ドアの隣に小さなボタンがピカピカ光る。そう、コーヒーが出来上がった。オフィスに戻っているSalがタブを拾い、友達のJoeに振る。SalとJoeは仮想オフィスを共有している。仮想オフィスの共有は場合によって異なるが、今回、SalとJoeは相手の位置情報とタブの内容を共有することにした。Salは、Joeのタブ情報を小型化し、机の横に置いてあるタブで表示している。気になる情報があったら、簡単に拡大できるわけだ。
Salの机の上に置いてあるタブが鳴ると、「Joe」が表示される。タブを拾い、ボードを付けるSal。Joeの声が天井から流れてきて、気になる原稿がボードで表示してくる。「この第三段落なんだけどさ、どうもうまくかけないんですよ。ちょっと読んでくれます?」「ああ、いいよ」段落を読んだら、Salが一つの気になる言葉を指差す。スタイルスで選択する。
「この「ユビキタス」という単語かしら。普段使わないからさ。ちょっと硬いでしょう。書き直してみたら?」「いいんじゃない。ところでSal、Maryさんから連絡あった?」「ううん。誰だっけ?」「先週の会議で出たあの人だ。君に連絡するって」SalはMaryという人の記憶はないが、先週の会議のことなら覚えがある。前の二週間、6人以上の出席者の会議を検索したら、例の会議が出てくる。確かに、Maryという人はいた。いつも通り、Maryはちょっとした個人情報を他の出席者に共有した。これを読んだら、SalはMaryとの共通点に気付く。やっぱり連絡してみると面白い、と思うSal。会議後、個人情報が消えなくてよかったと…
いかがでしょうか?Mark Weiserが思いがいた「コンピューティングが日常に融け込まれている」という情景がなんとなく思い描けたでしょうか?(ちなみに、これが書かれたのは1991年。Windows 95などが発売されパソコンが一般的に普及するさらに前に書かれています。)
↑ 最近の研究の例。1個のセンサーでなにをやっているかを知れれば、もっとコンピューティングはユビキタスになる。Mark Weiserのビジョンに共感した多くの研究者が日夜、それに近づこうと研究しています。
おわりに
このように、彼の「ユビキタス・コンピューティング」というビジョンは30年経った今でもいまだ色あせていません。むしろ、モバイルなどコンピュータがユビキタスになっている今だからこそ、「果たしてコンピューティングは文字と比較してユビキタスな情報テクノロジーと言えるのだろうか」といま一度、問いかけるべきときなのかも知れません。
Mark Weiserの「ユビキタス・コンピューティング」という思想は、今も北極星のように多くの研究者の道しるべになっている理由が、なんとなくおわかりいただけたでしょうか?
ちなみに、気づいた方もいるかも知れませんが、このnoteでは一貫して「ユビキタス・コンピュータ」ではなく、「ユビキタス・コンピューティング」という言葉をあえて使っています。
それはコンピュータがユビキタスになる(いつでもどこでもアクセスできるようになる)ということではなく、コンピューティングが空気のように存在するという、Mark Weiserのビジョンを踏まえようとしているためです。
研究において、言葉の選択や定義というのは非常に重要です。その点を踏まえた上で、いま一度原点を理解してもらえると幸いです。
さらに興味がある方は
- Computer for the 21st Century: Mark Weiserの元の論文
- 21世紀のコンピュータ: 清水亮さん(@shi3z)による上の論文の日本語訳
- 混迷するユビキタスの未来: MIT Media Labの副所長である石井裕先生による記事
このマンガについて
はじめに、で書いたように、このブログは、コンピュータサイエンスに興味を持った小中学生とかに、コンピュータサイエンスの学問の入り口があったらいいなと思って、2019年の7月にはじめました。
僕は小学生の頃マンガを通じて物理学を知り、学問に興味を持ちました。物理学にはそういうものがあったわけですが、僕が最初この分野のことを知った時、コンピュータサイエンスにそんなものはありませんでした。
そんな最初の入り口が、コンピュータサイエンスという学問にもあったら、昔の自分がもしもそんなものを知っていたら、また少し違う世界が広がってたんだと思っています。
そういった「コンピュータサイエンスの最初の入り口を提供したい」。その点だけを考えて、基本的にはやっています。(ちなみに、中の人はアメリカの大学のPhD課程の学生で、コンピュータサイエンスの研究をしています。仕事の傍ら、週末に時間できた時にやってるので、今回みたく手抜きになってしまっていますが、ご了承ください _(._.)_ ペコリ)
また、この分野に興味が持った人にとって重要な点が2つあると思います。
1. 基本的な概念や、学問全体の流れがわかっている
2. 最新の研究を追ってキャッチアップできている
1については、マンガを通じて少しずつ紹介していけたらな、と思うのですが、それだけでは足りないわけです。なので、このnoteでは、マンガの他にも、1) 最新のコンピュータサイエンスの研究を140字でゆるく解説しつつ、気になる論文には 2) こういう研究もあるよ、と2-3個似てる研究を紹介もしてコンテクストを掴む手助けをできたら、と考えています。なので、もし興味があれば、他のnoteも見てもらえると嬉しいです。 :(っ'ヮ'c):
また、小中学生のみならず、実務で忙しいんだけどコンピュータサイエンスのことを教養として知っていたいという方や、最先端でどんなことが起きてるか知りたい、という方にとっても楽しんでもらえたら、これ以上嬉しいことはないです。
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上で述べたように、このnoteは、小中学生たちに届けたいと思ってやっているため、基本的にnoteを有料にするつもりはないです。(そもそも彼らはクレジットカードも持ってないだろうし。)
なので、「なにかお返しがしたい」という方がいらっしゃるのでしたら、Twitterでフォローしたり広めて頂けたりすると嬉しいです。:(っ'ヮ'c):
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中の人は、アメリカでコンピュータサイエンスの研究をしています。
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